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海は絶えない
『いつかこの夜は明けるって信じてるの』
「君は、海を知らないの?」
『すごい大きくて、ずっと続いてるみたい』
「ほんとうは世界は平らかもしれない」
『…満月の日にもう一度私と来てくれる?』
「それって…1週間後くらいかな。なんで満月なの?」
『手術の日、明後日なの。だから成功して、また見に来るの』
「そっか、楽しみだなぁ」
『おやすみ』
記憶は朧気で、鈍い解像度の会話しか思い出せなかった。病室から抜け出して、目の前の海へ言って帰るまで僕らの時間はまるで永遠だった。
明け始める淡い空に僕らは希望を抱いていた。
どこまでも澄んでいた。
ほんとうに澄んでいた。
そうだった、
でも。
君への小さなプレゼント。僕の軽い足取り。そして、喚くようなうるさい電子音。不吉な音の先は彼女を取り巻く看護師達だった。
頭が唸ってそこからの記憶は曖昧だが、
『ごめん、ね』
焦る人達の隙間から小さく君の口がたしかにそう動いた。
口元が見えただけで、どんな目をしていたのか分からなかった。
わからなかった。
失ったものが、1番失いたくないものだったとき人はこんなにも何も出来ないということを知った。
…君のいない世界でどうやって生きればいいんだ
空っぽのベッドを見ても、君を記憶の欠片で描いても、僕は…。
僕は、花を置いて病院を飛び出した。
「はぁ、はぁ…ごほっ、…う、」
苦しい。
でも顔を上げれば、悔しいほど綺麗な満月が僕の瞳に溶けていく。
「…あ」
「ぁあ、」
「あぁああっ、っあ、あああああ」
叫んだって意味なんてないのに。
でも叫ばないと体が崩れてしまいそうだから。
…わからない。君が、僕を置いていってしまったことが、上手く飲み込めない。
信じたくないから、壊れてしまいそうだから、わからないから、いっそ棄てたい。
世界は君を失っても変わらない。何ら変わっていない。
冷たい。
痛い。
こんなに穴の空いた心ですら締め付けられる。
いつかこの夜は明けるって…君は言ったよな。
でもどうだろう、世界は残酷だ。
「信じたって!何になんだよ!!なぁ…!…」
静寂が僕をより一層孤独へ追い詰める。
ざー、と優しい砂嵐みたいな耳障りな波音が僕を傷つける。
世界に、神様に見放されてしまった。そうに違いないと僕はわかったフリをすることしか出来ない。
声は闇と波音に掻き消されてしまうから、
ただ、足を動かす。前へ往く。
体を倒す、つま先が冷たく鈍い感触の濡れた砂を圧する。
「つめたっ…」
僕は感情が消えてしまいそうなのに理性的な感覚がなんら普通であることに気味悪さを覚えた。
「うっ…う、ぅわ、あっ…」
泣き声が辺りに響いた気がした。
届きそうだった。
冷たい。
服が波の重さへ引っ張られそうなる。
それを掻き分けて必死に、できるだけ遠くを目指す。
寒い。
死んでしまえば届く。
ここでは無いところへ行ってしまった君へ、
僕は君を追いかける。
あぁもうすぐ
君に会えるんだと思えば____
「はっ」として起きると天井が見える。
病院…?
「生きて、る」
死ねなかったという予感と共に重たい体を起こす。
とたん、騒ぎ立てる大人たちに身体が強ばった。
生きていてよかった。君は真夜中海から救出された。
そんな風に説明される言葉を一生懸命聞くが、詳細が上手く入ってこない。
ただ、ある一言が僕を貫いた。
「”ここにいるの、助けて”って女の子の叫び声がして、パトロールの警官が気づいたらしいの」
馬鹿な。
「ここにいる“の”?、“女の子”の…声」
「そう、たぶん…」
「そっか」
僕は奇妙な奇跡の顛末がありえない事実であることを理解する。大人たちもどこかでわかっていて、病室がしんとなった。
ありえない。
『信じてるの私、届くって信じてる。
闇に、雑音に声がかき消されても諦めない。』
君ならそう言っていただろう。
暗闇で叫んだだろう。
信じて、叫んだんだろう。
君なら、奇跡を信じただろう。
有り得る、に賭ける。
君はそんな強い人だった。
ほら、みろ
_____君じゃないか。
また君は僕を救った。
絶望の海から僕を掬い上げた。
まだ冷たい身体で僕は子供みたいに泣き喚く。
君のせいで僕は今、息をしている。
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