0人が本棚に入れています
本棚に追加
「思い出したんですね……じゃなくて、思い出したの?」
元妻は降りしきる雨に目を向けながら聞いてくる。
「全部じゃない。少なくとも、お前のことは思い出した」
沈黙。雨の音だけが耳朶を叩く。
元妻は、わたしからの言葉が何か出ないかと、じっと待っていた。
わたしは何度か言葉を口にしようとして開き、また閉じる、といった動作を繰り返した。
どんな言葉を口にしたらいいのか、わからない。
言葉を出そうとした瞬間、その言葉が途端に正しくないように感じてしまう。
業を煮やしたわけではないだろうが、元妻がわたしの代わりに口を開いた。
「ねえ、わたしは解雇されるの?」
元妻の双眸がわたしを捉える。わたしはそれから逃げるように視線を逃がした。雨の勢いは止まることを知らない。
まるであの日と同じように、逃げた。離婚をしたいと告げた日と同じように。
たしかに、わたしと妻は離婚した。妻は離婚を拒んだが、わたしが押し通した。押し通さなければならなかった。
わたしは病を抱えていた。今の寿命は残り半年ほどだ。
記憶喪失になった際に、それも忘れた。けれど、医師は残酷にも、いや、それが彼らの仕事だから仕方ない、それをわたしに伝えた。
二度も寿命宣告されたのは、わたしぐらいなものだろう。
それはさておき、記憶を失う前のわたしは、元妻に離婚を申し出た。病気のことは隠して。
理由はシンプルだ。
自分の死んだ姿を、大好きな人に見られたくなかったからだ。
大好きな人に、看取られたくなかった。
早い話が、格好悪いところを見られたくなかった。
格好いいところだけを、元妻の記憶に留め置いて欲しかった。
わたしは元妻の前では必死に格好いい男を演じてきた。元妻に一目ぼれして、絶対に振り向かせてやる、と気合を入れたその日から。
付き合っても、結婚しても、それは変わらなかった。
大好きな人に嫌われたくなかったから。
だから、病を告げられ、余命を告げられたその日の内に、わたしは離婚することを決心していた。
本当は一緒にいたかった。元妻が空に旅立つその日まで、傍らにいたかった。
だけど、わたしの方が先に弱ってしまった。年が十も離れているのだから、自然の摂理といえば、そこまでなのだろうが。
……それがどうしてこんなことに。
改めて元妻の方を見る。すると、元妻もわたしのことを見ていた。
「それで、わたしは解雇?」
ずいっと顔を寄せてくる。年を経て、皺は増えた。だが、わたしの元妻に対する愛は変わらない。
いや、変わっていなくはない。むしろ、増えた。増え続けている。
「まあ、解雇するだろう、普通」
「……本当に言ってるの?」
元妻はわたしの答えに目を見開いた。
「本当だ」
「じゃあ、あなたの面倒は誰が見るって言うの? こう言ったらいけないかもしれないけど、あなたの体はこの先、一人で生きていくには大変過ぎる。誰かの手を借りるべきよ」
「それは、別にお前じゃなくてもいいだろ」
元妻は頬を叩かれたような顔をした。
「……たしかに、そうだけど」
わたしは杖を突き、屋根を出た。たちどころに、全身が雨に濡れる、はずだった。だが、奇妙なことが起きた。雨が一瞬にして引いたのだ。
ふと、思い出した。そして、くすりと笑ってしまった。こんな奇跡、あるんだな。
いや、違うな。この奇跡を起こしたのは、元妻だ。
ゴールデンウイークの中日。大混雑の最中の遠出。
これはわたしが働いていた頃、まとまった休みを取れたのが、ゴールデンウイークか年末だけだったせいだ。だから、元妻との遠出はいつも混雑していた。
渋滞で寂しそうな顔をした理由も今ならわかる。渋滞10キロは、この時期にしては、あまりにも短いのだ。記憶が戻っているわたしであれば、長いなどという言葉は吐かない。
車の運転で緊張していた理由も思い出した。わたしと彼女はいつもバイクに乗り、色々なところを訪れていた。だから、買い物などの近距離では車を運転していても、長距離の運転経験はほとんどない。
そして、この場所。この場所はわたしたちにとっては、あまりにも大切な場所だった。
なぜなら、わたしがプロポーズをした場所だからだ。
本当はもっといい景色の場所でするつもりだった。だが、天候は今日みたいに荒れてしまい、バイクだったせいもあり、その場所にたどり着くことができなかった。
結局、なし崩し的に、ここでのプロポーズとなってしまった。
多分、人生で一番格好悪い瞬間だったと思う。元妻の前で格好つけ続けてきたのに、大切なタイミングでやらかしたのは、今でもひどい後悔だ。
だが、元妻は泣いて喜んでくれた。
「大切なのは場所じゃない。大切なのはその想いなのよ!」
そう言ってくれた。さらにはこうも言ってくれた。
「それにこんな場所でプロポーズ受けたのってわたしぐらいでしょ! だとしたら、ここはわたしたちだけの大切な場所になったわ!」
刹那のことだった。
「あ、雨が……」
「……やんだ」
今日と同じように、不意に雨がやんだ。つい先ほどまでの大雨が嘘のように、まるで魔法をかけたみたいにやんだのだ。
わたしは頭を振り、回想をやめる。今、わたしが見るべきは過去の元妻ではない。目の前にいる元妻だ。
「わたしは、お前を解雇する」
改めて、はっきりと伝える。
「……わかったわ」
元妻は引き下がった。わたしが頑固な性格で、一度決めたことは安易に翻さないことを知っているからだ。
「……じゃあ、そろそろ帰りましょうか。これ以上の用事もないから」
元妻は踵を翻し、わたしに背を向ける。両手で顔を必死に拭いながら。
もう、雨は降っていない。
わたしは動きづらい自分の腕を全身全霊を持って、動かす。そして、あらゆる力をその先にある手に伝え、元妻の腕へと伸ばす。
届け、届け、届け!
その想いが届いたかのように、わたしの腕は、手は、事故前にのようにスムーズに動いてくれた。まるで、今まで動かしづらかったのが、冗談だったかのように。
そして、つかむ。元妻の腕をつかむ。
内心では自嘲していた。あんなに格好つけてきた日々は何だったのだろうか、と。情けない姿を見せたくなくて、嫌われたくなくて、したくもないのにした離婚は、何の意味があったのだろうかと。
だけど、それでも手放したくないものだと、改めて認識した。
記憶を失っていたとはいえ、大好きだった元妻のことを忘れ、あろうことかお手伝いさんとして雇っていた。
格好悪い。格好悪すぎる。
それでも、元妻は一緒にいてくれた。わたしに合わせて、本当の自分を隠したまま、わたしの世話をしてくれた。こんなにありがたいことはない。
だから、言う。
もう一度言う。
あの時と同じ言葉を。
元妻の腕を引っ張り、わたしの方に向けさせる。瞳からは涙の粒が舞った。
「わたしと、結婚してください」
元妻は驚きに目を瞬いた。
プロポーズした日と全く同じ反応だった。
そして、次の行動もまた、同じだった。
わたしの腕は引っ張られ、元妻へと一気に吸い寄せられる。
「当たり前じゃないッ!」
そして、わたしと妻は強く強く互いを抱きしめた。
あの日と同じように。
~FIN~
最初のコメントを投稿しよう!