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人が最初に忘れるもの
あれから一ヶ月。詩穂は、いつも自分の傍で、歌やギターの練習を見てくれていた。
『聴こえないのに、退屈じゃない?』
覚えたばかりで、まだ何回も調べないと伝わらない、あまりにもたどたどしい手話でそう聞くと、詩穂は笑って頷く。
『うん。萩永くんの歌う姿を見るのが、一番楽しいんだ。』
『何それ。』
『それに、絵の練習にもなるし。』
絵って? と聞くと、詩穂は恥ずかしそうに、手に持っていたスケッチブックを見せてくれた。
(これ……俺?)
美しい絵。自分をアニメの中へ入れたら、こうなるんじゃないかと思うぐらい、忠実にキャラクター化されていた。
『凄い、プロみたい。』
『だって私、イラストレーターになるのが夢だし。』
驚いて詩穂を見ると、詩穂は寂しげに笑った。
『だって、絵なら音が必要ないでしょ?』
志したのに、諦めた音楽の道。そこから詩穂が進んだのは、絵の道だったのだ。お世辞抜きで、本当に上手かった。
そう伝えると、詩穂はニッと笑った。
『お互い、必ず夢を叶えよう!』
頷いた時、不意に「音楽を教えてほしい」と言われた。一瞬戸惑ったが、必死に少ない語彙力で説明を始める。
曖昧な顔をしている詩穂の耳に、キーボードに繋いだヘッドホンをつけ、最大音量にして鳴らした時、ハッとしたようにこちらを見てきた。
『音が上がる感覚、分かった気がする!』
『え、マジ?』
頷いた詩穂が、満面の笑みで続ける。
『音楽って楽しいね。』
思わず、鍵盤から手を離し、手話で伝えていた。
『聴こえるようになったら、好きな曲、教えるよ。』
嬉しそうに頷く詩穂に、わずかに胸が高鳴った気がした。
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