209人が本棚に入れています
本棚に追加
【終章】もう一度、あなたに
その日、王都は青く澄んだ空の下、暖かな春の陽差しに包まれていた。
街はいつになく賑やかで、どこからか、鐘の音や楽隊の音楽が聞こえてくるほどだ。
建物の窓からは、色あざやかな春の花の花びらが降り注ぐ。街路の両脇に並んだ露店を眺めながら、道行く人々の顔は皆、楽しげで晴れやかだった。
そして、今……
「ほら早く、みんな! 急がないともう始まっちゃうよ!」
祝祭の日のための晴れ着をまとった人々で溢れる大通りを、子ども達が駆けていく。皆、めったにないその儀式を遠目からでも目にしてみたいと、急いで家を出て走ってきたのだ。
そう――今日は、祝祭の日。
ラウステラ国の王女ネリネと、かつて彼女の騎士であったダリルの、結婚式が行われる日だった。
……ダリルと待ち合わせをしていたのは、王宮の中にある庭園だった。
ちょうど一年前、初めて彼とともに舞踏会に出たあの夜と、同じ場所だ。東屋を囲むように、淡いピンクや黄色の薔薇が愛らしく咲いている。
(……あの時はまだ、こんな日が来るなんて考えもしなかった)
そういえばあの夜は、焦ってダリルのもとへ行こうとしたせいで、つまずいて転んでしまったのだった。彼に抱き留めてもらえなかったなら、どれだけ大変な目に遭っていたことか。
『ご、ごめんなさいっ! 私、何をやって……!』
『いえ、姫様。どうか俺などに謝らないでください。それよりも、お怪我は? 足をひねってはいませんか?』
『…………』
きっと、あの時には。
否、ずっと昔に会っていたことも知らず、再会を果たした儀式の時から、ネリネはもうずっと彼に惹かれていたのだろう。
純白のヴェールを風に揺らしながら、花咲く小径を歩いていく。東屋に近づいていけばいくほど、少しだけ気恥ずかしく、それでいて甘酸っぱいような思いが胸いっぱいに広がっていく。
(この姿……ダリルが見たら、なんて言うかしら)
雪よりも白く、花開くように広がった裾に繊細な刺繍や、波打つようにきらきらと光るビーズ飾りが施されたこのドレスは、今日のためにとプリシラが中心になって選んでくれたものだった。誰よりも嬉しそうに、はりきってネリネのドレスや靴や、当日の髪型などを考えてくれていた妹の姿を思い出すと、温かな気持ちにならずにはいられない。
そして、ついに。
東屋のすぐそばにいる彼の姿が見えた途端、とくんと心臓が跳ねた。
穏やかな風が吹き、ふわりと、あたりに薔薇の香りが舞い上がる。
視界のすみにネリネの姿が映ったのだろうか。ふいにダリルが顔を上げ、まっすぐに視線が重なり合った。
「ネリネ……」
どきどきしながら歩み寄っていくネリネを、ダリルは言葉もなく見つめていた。ぽかんと呆気に取られたような顔をする彼に、こそばゆかった気持ちも忘れて、思わず笑みがこぼれてしまう。
「ごめんなさい。待たせてしまったかしら。支度に時間がかかってしまって」
「いや……」
ネリネが声をかけても、ダリルにはなかなか正気に戻るような気配がなかった。
やがてようやく、彼は口を開く。
ほのかに頬を染め、照れたように。
「すまない。つい、見とれてしまった。……とても、綺麗だ。ネリネ」
抱き寄せられて、そっと唇が重なる。
頭上では春風を浴びて、ミモザの花枝が優しく揺れている……
何かあった時のためにと余裕を持って待ち合わせたため、バルコニーへ向かうには少しだけ早すぎた。
王都の中心部にある大聖堂で、婚礼の儀式は執り行われる。
けれどその前に、王宮の敷地内にある広場を見渡せるバルコニーで、ネリネはダリルとともに集まった人々に姿を見せ、挨拶をすることになっているのだ。
今日は朝から、王宮の門は開け放たれ、誰もが広場に入れるようになっていた。
今頃はもう、二人の姿を一目でも見ようと、広場は大勢の人々でいっぱいになっているのだろう。静かな庭園の奥にいても、耳を澄ませば賑やかな人々の声が聞こえてくる。
「ここに来るまでに、考えていたのよ。私、きっと最初からあなたのことが好きだったんだなって」
ふと、つい訊いてみたくなって、ネリネはダリルを見上げた。
自分から尋ねるのは、少しだけ恥ずかしい問いだ。
それで、どうしようかしばらく迷った後に、ネリネは思い切って訊いてみることにした。
「……あの。ダリルは……」
「ネリネ?」
「ダリルは、その……いつから私のことが、好きだったの?」
実際に口に出してみると、思ったよりもずっと恥ずかしくて、顔が真っ赤になってしまう。
やはり今の質問はなかったことにしようと、ネリネがとっさに口を開きかけたのと、ダリルから答えが返ってきたのとは、同時だった。
「……それは、決まっている。あなたと、初めて出会った時。あなたがこの手を握ってくれた時からだ」
「え……?」
遠くから風に乗って、高く澄んだ鐘の音が聞こえた気がした。
ネリネの前に立ち、ダリルは微笑んで、手を差し出してくる。
「行こう、ネリネ。もうすぐ時間だ」
最初のコメントを投稿しよう!