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凜とした声で、少女は堂々と言い放つ。その声は端々が震えていて、はたで聞いていてもわかるほどの怒りに満ち満ちていた。
「この人、すごく痛がっているし、苦しんでいるわ! それなのに、どうしてこんなひどいことをするの!?」
「なんだてめえは! 子どもはすっこんでろ。じゃなきゃてめえも同じ目に遭いたいのか、ああ!?」
「おい、やめろって。まずいぞ、あの子どもは……!」
ひそひそと耳打ちする男。
明らかに大人達の表情が変わったのはその時のことだった。
瞬時に顔を青ざめさせたかと思うと、彼らはばつが悪そうにそそくさと逃げ去っていく。
何が起こっているのか、わからなかった。
けれど、呆気に取られていられたのも、つかの間のこと。
彼は再び激しい咳の発作に襲われた。
「がはっ……、げほっ、がぁ、っ……!」
「――しっかりして!」
瞬間、彼は驚愕する。
泥と血と唾液で汚れきった彼の手を、そっと優しく握っていたのは。
「だ……めだ……っ!」
とっさに少女の手を振り払う。
彼の病は、かかれば必ず死ぬと言われる恐ろしい病なのだ。
死ぬその時まで誰かに手を握っていてほしいなどという願いは、もう完全に吹き飛んでいた。
残っていたありったけの力を振りしぼって、彼は少女に警告する。
「俺、は……病気だから……。それ以上……っ、近づくな……!」
今すぐに、ここから離れてほしかった。
でなければ、この少女まで病にかかってしまうかもしれない。
――この不条理な世界で、たった一人だけ。
神にすら見捨てられた彼を、守ってくれた。汚れきり、ひどい匂いのするぼろきれをまとった、ごみ屑のような彼のそばに跪き、優しく手を握ってくれた。
このままでは、たった一人、彼に寄り添ってくれた彼女に不幸をもたらしてしまう。
それだけは、絶対に嫌だったのだ。
なのに少女は、首を横に振る。
手を握るばかりか、血と泥で汚れた彼の身体を膝の上に抱き、女神フィリスを思わせるような慈悲深い微笑みを浮かべて告げるのだ。
「大丈夫」
喉が、熱かった。
つう、と何かが頬を伝い落ちていく。
それが涙だとわかった時にはもう、少女の手が彼の頬を撫ぜていた。
彼の流した涙を拭いながら、少女は再び、言葉にする。
それは、これまでずっと暗闇の底で生きてきた彼にはあまりにも温かく、まぶしく……優しすぎる言葉だった。
「もう、大丈夫よ」
――それは、どれほど時が経とうとも、一日たりとも、忘れたことなどない記憶。
果てのない暗闇の底まで降りてきて、光を灯してくれた少女の記憶だった。
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