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はっとして視線を向けた先は、眼下に広がる庭園の一角だった。
ほのかな月灯りを帯びる庭園の小径を歩いていく、その後ろ姿は……
思わず、心臓が大きく跳ねるのを感じる。
食い入るようにして、わずかに見えたその横顔を見つめた。
(ダリル? でも、こんな時間にどうして……)
月があまりにも明るすぎて、一人バルコニーに立つネリネの姿は、かなり目立つものだったのかもしれない。
何気なく月を見上げようと思ったのだろうか、ふいにダリルが少しだけ顔を上げる――けれど月まで到達する前に、彼の視線はネリネのいるこの場所に止まった。
ダリルがはっと息を呑む音が、こちらまで聞こえてきそうなほどだった。
彼は立ち止まって、驚きもあらわにネリネを見つめてくる。けれどすぐに我に返ったのか、ネリネの立つ方角へと向き直ると、片手を胸に添え、深く頭を下げて立礼してきた。
考えるより早く、身体が動いていた。
とっさに部屋に戻ると、急いで外出用のローブを羽織る。
なるべく音を立てないように部屋を出て、月灯りを頼りに回廊を早足で進んで、階段を下りた。
庭に出てすぐにダリルの姿を見つけて、ほっと胸を撫で下ろしながら駆け寄っていく。
「姫様。あなたはまだ、お休みになっていなければならないのでは……」
「眠れなかったのよ。今日は王宮に戻ってからずっと休んでいたから。ダリルこそ、どうして? あなたの方が、休んでいなければならないはずだわ」
今、ダリルが身につけているのは昼間と変わらない騎士の装いだ。誰の目にも明らかに、休む時の服装ではない。
森を出て王宮に帰り着いてすぐ、ネリネは湯殿で温まり、寝間着に着替えて休むことができた。けれどダリルはそうではなかったことは、口伝てに侍女達から聞かされていた。ろくに休む間もなく、彼は森に出没した魔物の調査に加わっていたのだと。
ダリルは首を横に振って、言った。
「いえ。衛兵も多くいますし、王宮にまで魔物が現れる事態は考えにくいですが、それでも万が一ということがありますから。俺は先ほど仮眠を取りましたから、問題ありません」
「それなら、ダリルがここにいたのは私を守るため……?」
思えばこのあたりは広い庭園の中でもネリネの部屋に近い場所だ。夜遅くまで騎士服姿でダリルがここにいた理由は、それ以外には考えられなかった。
思わず謝罪を口にしそうになったネリネの心情など、とっくに見通されていたのだろう。ダリルはかすかに微笑んで言った。
「騎士としての務めですから。どうかもう、謝罪はなさらないでください」
「……わかったわ。でも、どうか無理はしないで」
魔物が一度現れた場所の近くには、しばらくの間、再び魔物が現れる可能性が高くなる。険しい道のりに隔てられているとはいえ、フィリスの丘のある森から王宮までは、さほどの距離はない。魔物が王宮にまで現れる、その万が一の危険のために、ダリルは夜も外に出ていてくれたのだろう。
本当は、護衛はもういいから休んでほしいと言いたかった。
ネリネ自身の安全などよりずっと、彼が身体を壊さないかの方が心配なのだとも。
(もう何日も一緒にいたから、わかる。……きっとダリルは、限界を過ぎても頑張ってしまう人だから)
けれどこんな状況では、ネリネがいくら休んでほしいと願ったしても、ダリルが聞き入れるはずもないことは明らかだった。
むしろ、室内で休んでいるよりもここで万が一の事態に備えている方が、ダリルにとっては安心できるのかもしれない。
そう思えば、それ以上彼に何かを言うこともできず、ネリネはただ黙り込むしかない。
「…………」
帰らなければ。
そう思った。
襲撃が起こる可能性はほとんどないとはいえ、ダリルが護衛に出てくれている以上、ネリネは今すぐに安全な王宮の中へ帰るべきだ。
けれど。
(せめて、何か……)
何か、ネリネにできることはないのか。
必死に頭を巡らして、けれど結局、何も思いつかなくて。
無力感に苛まれながら、後ろ髪引かれる思いで部屋に戻ろうとした、その時だった。
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