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バクを飼った。
手足が短く、しっぽも申し訳程度に伸びているだけ。顔ばかりが大きく、目はひどく眠そうに垂れている。お世辞にも「かわいい」とは言いがたい姿だが、愛嬌はある。
匂いを嗅いでみると、少し焦げたような、香ばしい匂いがする。毛はゴワゴワしていて浅黒いから、もしかしたら本当に焦げているのかもしれない。
早速ペットショップへ行ってエサを探してみたものの、当然というべきか、「バクのご飯」と明記されている商品は棚のどこにもなかった。ネコとイヌのエサはそれぞれで棚を一つ使っているほどで、魚やトリのエサも違いが分からないくらいたくさんあるというのに。
仕方ないので、フックがたくさんかかった壁にイヌの首輪を並べていた若い店員に声をかけて「バクのエサになるものはありませんか」と聞いてみると、店員はひどく困ったように「バクですか?」と聞き返してきた。
「はい。バクです」
「あの……小さいカバみたいな、バクですか?」
「はい」
小さいカバみたいな、とは思わなかったが、そこを説明しても話がややこしくなるだけだと思い、素直にうなずいた。
店員は、少々お待ちくださいと店の奥へ引っ込んでしまった。しばらくして出てきた男性は「店長」を名乗り、この店にバクのエサは無いと頭を下げた。珍しい動物のエサは、やはりそこらへんのペットショップには置いていないのだろう。
しかし、食べるものがなければバクも腹を空かせてしまう。何を食べるのかも知らないので、とりあえずウサギ用のエサやネコ用のエサなどをいくつか買って、店を出た。
一度家に帰って荷物を置いてから、今度は本屋に向かった。
本屋は好きだ。困ったことがあっても、それについて説明してくれる本を見つければだいたいのことは解決する。図書館も嫌いではないが、期日が来るまでに読んで返さなくてはいけないというのは、焦ってしまう。
しかし、今回ばかりは本屋でもすんなりと問題解決には至らなかった。ペットの飼い方について解説する本は山ほどあるのに、そのどれにも、バクの飼い方は書いていない。ネコやトリの飼い方は両の手に余るくらいあるし、イヌにいたっては犬種一つで一冊が用意されているほどだというのに。
仕方ないので、レジのところでぼんやり立っていたおじさんの店員に声をかけて「バクについて書いてある本はありませんか」と聞いてみると、店員は慣れた様子で「少々お待ちください」とパソコンに向かって何事かを入力した。
ややあって、店員は顔を上げて、白髪交じりの頭を掻きながら聞いてきた。
「どちらのバクですか?」
「どちらの?」
「ええと、本当にいる方のバクと、夢を食べる方のバク、どちらでしょうか」
どちらでしょうか、と言われても、どちらであるのか分からない。本当にいる方のバクは、夢を食べるバクではないのだろうか。
だが、もし家にいるバクが夢を食べるのであれば、エサ代もあまりかからずに済む。
「じゃあ、両方でお願いします」
そう答えると、店員はやはり頭を掻きながら、「少々お待ちください」とレジから離れた。
しばらくして店員が持ってきた本は、三冊。図鑑が二冊に、なにやら難しそうな本が一冊。とりあえず三冊とも買い、店を出た。図鑑のせいだろうか、丈夫なはずの紙袋が頼りなく感じるほど、ずしりとした重さが腕につらかった。
家に帰ると、バクは部屋の隅に置いた座布団の上で寝ていた。早速、買ってきたネコのエサを適当な皿に入れて目の前に置いてみたが、バクはうんともすんとも言わなかった。
きっと、お腹が空いていないのだろう。
そう結論づけて、紙袋から取り出した本をテーブルに並べる。
一番大きな「動物図鑑 第3巻」と表紙に書かれた図鑑を開くと、古い紙にこもっていた埃っぽい匂いがぶわと広がった。よく見ると、角が少し潰れている。ビニールはかかっていなかった。子どもが読んで、買わずに棚に戻す。そんな事が何度もあった図鑑なのかもしれない。
ぱらぱらとページをめくっても、ほとんどは知らない動物ばかり。大きく分厚いのは、写真と絵が多くて、ページ一枚一枚が分厚いからだった。一番うしろまでめくってから、索引でバクを探す。35ページ。ぱらぱらと戻れば、たしかに、そこにバクがいた。
東南アジアなどに暮らしている、奇蹄目の動物。指が奇数本だと、奇蹄目。偶数だと偶蹄目らしい。それじゃあ、人間も奇蹄目なのだろうか。
マレーバクやアメリカバクなど、色んな種類がいるらしい。それぞれの写真と、部屋で寝ているバクを見比べる。どれも、あまり似ていないような気がした。新種だとしたら、大発見だ。
肉食ではなく、草食。たしか、ネコは肉食だ。なるほど、それじゃあネコのエサをあげても食べたいとは思わないはず。
ネコのエサを片付けて、ウサギのエサ――よく伸びている緑色の草を目の前に置く。食べない。そもそも、寝たまま起きようともしない。やはり、お腹が空いていないのだろう。
もう一冊の図鑑も開いてみたが、飼うために知りたいことは載っていなかった。野生のバクは水辺で暮らしているらしい。それならば、定期的にお風呂に入れてあげないといけないのかもしれない。それくらいのことしか分からなかった。
最後の一冊は、動物図鑑ではなくて、妖怪の本だった。
親しみのない漢字が多く、表紙の題名も満足に読めない。中身は、更にややこしい。これは本当に日本語なのだろうかと思うほど画数の多い漢字ばかり。適当なページを開いても、内容が頭に入ってこない。少しがっかりしながら索引を見て、バクを探した。
「あ」から「ん」まで三周して、やっと見つけた。獏という漢字に(バク)と読み方が振ってあった。136ページ。「獏は、中国から伝来した」という書き出しだった。
「こうであると言われている」「しかしこういう説もある」とばかり書かれていて、はっきりしない。その中で一つだけ、「悪夢を食う」という箇所だけは目を引いた。
どうやら、バクはいろんな生き物が混ざって今の姿になっているらしい。夢を食べるのは元々別の動物が持っていた食性だが、長い時間をかけて、今を生きるバクに受け継がれた。
写真は無い。白黒の分かりづらい絵と、部屋の隅でいつの間にか寝返りを打っていたバクを見比べる。
図鑑の写真よりも、こちらの絵のほうが、いくらか似ている気がした。
新種ではなく、こちらのバクということならば、なるほど、ウサギのエサを食べないのも納得がいく。
散歩は必要なのだろうか、などと考えていたら、携帯電話のアラームが鳴った。夕食の時間だ。バクはご飯を食べなくても、人間はご飯を食べないと体がもたない。
台所に立って、冷凍庫を開ける。半分残っていた冷凍炒飯をレンジで温めて、食べた。皿を片付けてから、流し台に置いていた薬を確認する。一日一錠。夕食後あるいは寝る前。
眠れません。眠れても、悪い夢を見てすぐに起きてしまいます。
そう言うと、医者は何やら難しい説明をしてくれて、薬を二種類くれた。朝に飲むものと、夜に飲むもの。朝に飲むものは、頭をはっきりさせてくれる。夜に飲むものは、頭をぼんやりさせてくれる。
でも、もしバクが悪夢を食べてくれるのであれば、夜に薬を飲む必要は無くなる。
試すために、薬を飲まずに布団に入った。
翌朝、バクはまだ寝ていた。そばに置いておいたウサギのエサは、手つかずのまま。
布団から出て、カーテンを開けて、伸びをする。眠った時間は短かった。それでも、悪夢は見なかった。
きっと、バクが食べてくれたからだ。
薬を飲んでいないのに少しぼんやりしているが、これがきっと自然な寝起きの感覚なのだろう。
いつもより上機嫌で、身支度をする。仕事帰りに、バクが喜んでくれそうな何かを買って帰ろう。食べ物は夢でいい。おもちゃがいいだろうか。
玄関で振り返って「いってきます」と声をかけてみても、バクはやはり、寝たままだった。
悪夢を食べてもらうようになってから一週間ほど過ぎた、ある日の朝。
目が覚めて最初に気付いたのは、異臭だった。
煮込みを腐らせたような臭いが部屋に充満している。発生源は台所ではない。バクだ。
よく見れば、尻尾のあたりと口元に、赤茶色の液体がこぼれている。下痢と嘔吐。悪夢ばかり食べさせていたから、お腹を壊したのかもしれない。
携帯電話で調べると、近所に朝早くから開いている動物病院があった。地図を暗記して、バクをバスタオルで包む。持ち上げると、見た目よりもずっと軽い。
せめて臭いが近所の迷惑になっていないことを願いながら、部屋を出る。いくら軽いと言っても、動物一匹を抱えたまま歩くのはこたえた。動物病院に着いた頃には、腕が言うことを聞かず、下ろすこともできなくなってしまっていた。
白い壁のきれいな病院に入れば、待合室には、ケースにネコやイヌを入れた人たちが何人か座っていた。イヌはキャンキャンと鳴いて怖がっている。そういえば、バクが鳴いている声を聞いたことがない。元気なバクなら、ちゃんと起きて鳴いているものだったのだろうか。途端に、今までずっと寝ていたことも不安になってきた。
受付で「バクを診てほしいのですが」と声をかけると、職員は困ったように、「少々お待ちください」と奥に引っ込んでしまった。
ペットショップのときと同じだ。もしかしたら、動物病院も、小さなところではバクの対応をできないのかもしれない。
待合室もざわざわとしている。居心地が悪くなってきた頃、白衣を着た獣医がやってきた。
「バクですか」
「はい、バクです。今朝からお腹を壊しているみたいで」
「それは心配ですね」
獣医は、拍子抜けするくらい落ち着いて言った。
「ですが、こちらにバクの薬はありませんし、治療できる獣医もいないんです。大変申し訳ありませんが、案内状を書きますので、他の病院に行ってもらっていいですか?」
今すぐにでも診てもらいたいんです、と言いたい気持ちをおさえて、どうにか「分かりました」と答える。
ここで騒いでも、薬がないのであればどうしようもない。素直に、バクのために案内された病院へ行くべきだ。
茶封筒に入った案内状を受け取ってお礼を言うと、獣医と受付職員は、「お大事に」と丁寧に頭を下げてくれた。きっと、あの人たちも心苦しいのだろう。
相変わらずキャンキャンと鳴いているイヌに見送られて、動物病院から案内された病院に向かう。渡された地図は単純で、すぐに道順を覚えられた。歩いて、おそらくは十分もかからない。
しかし、すこし歩いたところで、風景に見覚えがあると気付いた。もしやと思い道をぐるりと回ってみれば、それもそのはず、そこは以前、悪夢を見て困ると相談した病院だった。
受付で案内状を渡せば、さらに驚いたことに、バクを診てくれるという獣医は、以前薬をくれた医者と同じ名前だった。
待合室に、動物を抱えた人はいない。人も動物も診なければいけないのであれば、とても大変なことだ。
バスタオルで包んだバクに向けられる物珍しそうな視線にさらされていると、やがて、看護師から呼び出しがかかった。
診察室は真っ白で狭い。以前来たときと同じだ。椅子に座ったまま「こんにちは」と笑顔で挨拶する医者も、前と同じだった。
「こんにちは。今日は、バクを診てもらいたいんです」
「ええ、かわいいバクですね。じゃあ、そこの台に降ろしてもらってもいいですか?」
言われるがままに、バクを台に下ろす。荷物を置くための台だと思っていたけれど、診察台としても使えるらしい。
椅子から立った医者は、バスタオルの上からバクを触りながら「うん」とつぶやいて、聞いてきた。
「どんな風に具合が悪いんですか?」
「下痢をしていたんです。あと、吐いてました」
「それは心配ですね」
頭と、お腹のあたりをしばらく触って、医者はまた「うん」と言った。それだけで、キャスター付きの椅子に座って、パソコンの画面に向き直る。
「バクの方は、お腹の薬を出しておきましょう」
「注射とかは、無いんですか?」
「注射は痛いですから」
それもそうだ。痛くない治療があるなら、痛くない方がいい。
「ところで、どうでしょう。最近は、眠れていますか?」
「え」
「以前、不眠の薬をお出ししましたから。気になりまして」
バクだけじゃなくて、こちらの診察もついでにしてくれるということか。台に寝かされたままのバクは気になったが、素直に「はい」とうなずいた。
「バクを飼ってからは、特に。悪い夢を食べてくれているみたいで」
「それはいいですね」
「でも、悪い夢ばかり食べさせたから、お腹を壊したのでしょうか」
「それもあるかもしれません」
「じゃあ、いい夢を見たほうがいいですね」
「そうですね。そのためにも、いい夢を見るためのお薬を出しておきます。バクの薬と一緒に、お受け取りになってください」
医者はやはり笑顔のまま、「お大事に」と送り出してくれた。
バクを抱えているのに薬までもらって帰るのは楽ではなかったが、それでも、バクのために我慢して、ビニール袋を提げて帰った。
家で確かめれば、処方された薬は二種類。片方はバクの薬。もう片方は人間の薬。
人間の薬は、毎食後に一錠飲めばいいらしい。ちょうどお昼時だったので、食パンと牛乳で簡単に済ませて、鉄臭い水で一錠飲み込んだ。
さてバクにも薬を飲ませなければと思ったが、夢しか食べないバクに、どうやって薬をあげればいいのだろうか。ネコやイヌならご飯に混ぜればいいのかもしれないが、夢に薬は混ぜられない。
テーブルの上に置きっぱなしだった図鑑を開いても、当然、薬の飲ませ方なんてものは書いていない。
いっそ、無理やり口に押し込もうか。
思いつきを試しにやってみようと、バクの薬を一錠、手の上に出す。
振り返って、部屋の隅を見る。
真新しい座布団の上。そこには、バスタオルが一枚、投げ捨てられていた。
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