雨姫

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「申告な雨不足により、二本列島に干ばつの被害が相次いでいます。そして、空気の乾燥で、山火事、住宅火災が多数発生しています」  ここ数か月、このニュースばかりだ。  今、日本は歴史上で類を見ない雨不足だ。まとまった雨が降らなくなってから今日で百日目に突入した。そして、あらゆる食品に影響が出てきた。  日本のこの異常気象に、雨乞いをする団体が現れたり、雨を降らすことができるといった謳い文句で、詐欺グループが横行している。日本全体が、異様な雰囲気で包まれている。  俺は、食品会社に務めているため、このまま雨不足が続くと、職を失うことになる。  少しでも長く首を繋ぐなめ、遅刻は許されない。 「せめて寝ぐせくらいは直した方がいいかな……。でも、どうせ帽子被るし、いっか」  気休めに、自分の頭を撫でた。  ドアのチェーンを外し、鍵を開け、ドアノブに手を掛けた時だった。ドアが勝手に開き、ドアノブに体重をかけていた俺の体は、外へと引っ張られた。 「えっ? えっ?」  何が起きたのか理解するまで、数秒時間がかかった。 「朝早く申し訳ありません。神田様」  目の前に、青い傘を差したタキシード姿の年配の男性が立っていた。 「ど、どなたですか……」 「大変失礼いたしました! わたくし、雨降京太郎(あまふりきょうたろう)と申します」 「あまふりきょうたろう?」  変わった名前だな。それに、雨も降っていないのに傘を差し、なによりタキシードって、何者だ? 「わたくしの人生を賭けてお願いに参りました! どうか、どうか姫様をお助けください!」  言葉という言葉の全てを見失い、思考も停止し、自分自身も固まった。 「神田……様?」  目の前の男性が首を傾げ、俺を見ている。 「姫様って……」  絞り出した言葉はこれだった。 「はい! 姫様でございます! 我々の大事な大事な姫様をどうかお助けください!」  待て待て。姫様とはなんだ? 怪しすぎるじゃないか。俺がこんな詐欺に騙されるとでも思っているのか? 馬鹿にしやがって、こいつ。 「あなた、なんの詐欺です? お金なんてうちにはありませんよ。しがないサラリーマンですから。ほら、家を見ればわかるでしょ?」 「──そうなんですよね。なぜ、姫様がお選びになったのか、わたくしにはさっぱり理解できないのです」  そう言うと、顎に手を添え、首を傾げている。 「ちょっと、失礼じゃないです? 本人が言う分にはいいですけど、他人に言われたら、なんか腹立ちますよ?」 「失礼いたしました!」  慌てた様子で頭下げる。 「で、なんの用なの?」 「はい。私たちの大事な姫様をお助け願いたいのです。今現在、病にかかり、ご自身のお役目が出来ない状態なのです。このままでは、日本は、崩壊してしまいます」  また随分と大きく出たな。もう少しうまく、リアルに騙せないもんかね。 「それで、この俺はどしたらいいの?」 「はい。一度、こちらの国へいらしてほしいのです。そして、姫様に会っていただきたいのです。そうしましたら、きっと、姫様も我に返り、目を覚ますと思うのです」 ──国? 俺は、他国に売られでもするのか? これはいったい何の話なんだ? 「国って……」 「──雨国でございます」  あまくに? えっ?  「それって海外ですか?」 「ご存じないのは当然でございます。一緒に来ていただけたらご説明いたします」  急に恐くなってきた。俺は誘拐されるのか? 「あのう、これって誘拐……」 「いえいえ、まさか!」  目の前の紳士は、首と手を必死に横に振っている。 「一日だけです! ただ、一度だけ、神田様のお顔を姫様にお見せいただきたいのです。そうすれば元気になられるはず……」  紳士は、うつ向き、目を閉じた。 「姫様は、どんなご病気なんですか? そんなに悪いのですか?」 「はい。食欲もなく、ずっと下界を眺めているのです。忘れられないと……」  下界……。下界って、あの下界? 漫画で読んだことのある、あの下界か?   この、おじさん……何者だ? 「でも、行くにしても仕事がありますので。そう簡単には休むことは出来ないのですよ社会人は。有給だってとれないのに……」 「そのことならご安心ください。わたくしの方から、ご連絡させていただきましたので」 「えー! 何勝手なことしてくれたんですか! それでなくとも、職を失くす危機だというのに!」 「相手の方、大変心配しておられましたよ?」 「──なんて言ったんですか?」 「交通事故に遭い、意識が無く、今生死を彷徨っていると」 「……えええ!」  この人、やっぱり只者ではない。 「ど、どうするんですか? そんなこと言って。嘘じゃないですか?」 「大丈夫です。信じておられましたので」 「いやいや、そういうことじゃないですよ。人としてそういう嘘はまずいでしょ」 「しかし、神田様の任務は日本を救うのです。これくらいの嘘は嘘になりません!」 「は、はあ」  さあ、どうする。話としては嘘くさいが、この年配の紳士は嘘を言ってるようには思えない。どうする……。 「神田様、ご決断を」  仕事も休めたし、姫様を助けるって響き、なんかヒーローみたいでかっこいいしな……。 「はい、わかりました。行きます」 「ありがとうございます! この御恩は一生かけて返させていただきます!」  何が何だかよくわからないが、誰かが病気みたいだし、こんな俺でも人助けができるなら。 「では、行きますか」  そう言うと紳士は、傘を閉じた。 「ん?」  突然、風が吹き、目の前に巨大なてるてる坊主が落ちてきた。 「さあ、これにお乗りください」 「これに乗るって……」  紳士は、てるてる坊主の中に入っていった。続いて俺も入る。 「お、お邪魔します……」  中は真っ白だった。そして、ふかふかのソファがあり、そこに座った。ほのかに、お日様の匂いがする。 「じゃ、行きますよ」  すると、ふわっと体が浮いた。 「ちょ、ちょっと」 「大丈夫です。すぐ落ち着きますから」  紳士の言う通り、すぐに重力が戻った。どういうことなんだ? 「はい、着きました」 「え、もう??」  展開が早すぎて、もうなにがなんだか。  紳士は、のれんをくぐるように、降りた。俺も恐る恐る、外に出る……。   ──息を呑んだ。  ここは……。なんて綺麗なんだ。空は群青色で、星のように何かが輝いている。そして、虹がいたるところに出ており、その上をまるで橋を渡るかのように、人が歩いている。太陽という概念がないようで、見当たらない。それでいて、空の群青色が鮮やかなため、明るい。  あらゆるところに、湖や、噴水があり、水が溢れている。  ここは──雨国。雨の国。 「神田様、濡れます。これを」 「あ、ありがとうございます」 「ここでは、常に雨が降っていますので、傘をお持ちください」  霧雨が降っていた。しかし、俺の知っている雨ではない。全く不快感がない。雨の粒、ひとつひとつが輝いていて、辺り一面がきらきらしていた。  案内され着いた場所は、湖の真ん中に浮かぶ、城。 「城まで、このボートにお乗りください」  傘を逆さにしたようなボートに乗り、ターコイズブルー色の湖をゆっくり進む。 「足元にお気を付けください」  下を見ると、綺麗な魚が泳いでいる。  着いた城は、コバルトブルーの三角屋根で、全体は、白に近い薄い水色。城を囲む木々たちは、青々としており、風が吹くたびきらきら光っている。 「さあ、お入りください」  城へ入ると、使用人たちが押し寄せてきた。 「神田様! 神田様ですね!」 「ありがとうございます!」 「神田様!」  「こらこら、神田様が驚いているじゃないですか」 「申し訳ありません! 神田様!」 「神田様、改めて、こんな遠い所まで、ようこそお越しくださいました。どうぞこちらへ」  熱烈な歓迎が終わり、紳士に、広い部屋へと案内された。寒色系で統一された城内。そして、雲のようにふわふわで座り心地のいい、ソファに腰掛ける。 「神田様、さっきは使用人たちが失礼いたしました」 「い、いえ。熱烈に歓迎していただいて」 「神田様に、ちゃんと説明しなければなりませんね」  何を言われるんだ……。 「まず、ここは、雨の国、雨国でございます。簡単に言いますと、日本に雨を降らすという使命を担っています。他にも、雪を降らす国など、天気をコントロールする国があります。そして、日本に雨を降らすという使命を担っているのが、我が国の姫様、雨降時雨(あめふりしぐれ)なのです。しかし、先程お話したように、現在、姫様はご病気で、雨を降らす気力がないのです。その気力を持ち直していただきたく、神田様をお呼びしたのです」 「あのう……、なんで俺なんですか?」  ただでさえこのドラマのような展開に困惑し、受け入れられずにいるというのに、なぜこの国の大切な姫様の病気を治すのに俺が選ばれたのか……。 「──単調直入に申し上げます。姫様は、神田様に……恋をしたのです」 ………………。 「ええええ!」  一瞬意識がどこか遠くの場所へ飛んでいったような気がした。今、恋ってい言ったか? 恋……鯉……? えっ? 「神田様? 大丈夫ですか?」 「コイって、池を泳いでいる……」 「神田様……」  冷ややかな目で俺を見ている。やめろやめろ。 「──いやいや、恋って。俺に恋する人なんてこの世の中にいませんよ」 「まあ、人間界ではいないかもしれませんが、この国ではどうやらいたようですね──」  まただ。時々、冷たく言い放つこの感じ。 「──帰ります」 「あああ! 失礼いたしました! と、とにかく、神田様のことがあの日から忘れられず、帰ってきてからずっと心ここにあらずなのです。どうか、お力をお貸しください!」  俺に恋する女性がいるなんて……。奇妙なこともあるんだな。 「わかりました。それで、どうしたら……」 「神田様ならそう言っていただけると思っておりました! それでは、わたくしと一緒に」  言われるがままに、綺麗な花の絵が飾られている廊下を、まっすぐ歩いていく。それにしても、花の良い香りがするな……。 「こちらです」  着いたのは、黄色の花柄の大きなドアの前。開けるのが重そうなほど、重厚だ。 「姫様、入ってもよろしいでしょうか?」 「……」 「入りましょう」 「え? 返事なかったですよ? 女性の部屋に入るのに、勝手に入ったらまずいんじゃ」 「大丈夫です」  何が大丈夫なのかわからないまま、入る。 「うわあ、広いなあ」  天井が高く、花の良い香り。城全体は、寒色系で統一されているのに対し、さっきの廊下からこの部屋にかけては薄黄色で、やわらかい印象だ。姫様の好みなのだろうか。 「姫様です」  ん? どこに……。 「え……?」  紳士が手を差し出す先にいたのは……真っ白な猫。 「あのう、こちらが姫様……?」 「はい、姫様でございます」 ──はいはい、そういうことね。人とは一言もいっていないんだよ。俺が勝手に思い描いていただけで、人だとは言っていない。 「姫様、神田様がお越しくださいましたよ」  すると、真っ白な猫がゆっくりと振り返った。 「きゃっ!」 「えっ!」  これは……。真っ白な猫がこちらを振り向いた瞬間、人に変化した。 「ど、どうして、神田様が……。恥ずかしい!」  真っ赤な顔をした姫様は、小さな顔を小さな手で覆い、しゃがみこんでしまった。そのあまりにもかわいらしい姿に、視線が釘付けになってしまった。 「姫様! せっかく来てくれたのですよ。さあ、顔をお上げください」 「京太郎! なぜ、神田様にご迷惑をおかけするようなことをしたのです?」  少し怒っているようだった。しかし、全く怖くない。いや、むしろかわいい。 「それは、姫様が喜ぶと……」 「そ、それはそうですけと、こんな突然頼まれたら……。神田様にはお仕事があるのですよ!」 「だ、大丈夫ですよ。こちらの方が俺の職場に連絡してうまく言ってくれましたから。それに、迷惑ではありませんよ……姫様」 「…………ひゃっ! 神田様が姫様だなんて!」  この国の姫様は相当恥ずかしがり屋のようだ。 「姫様、大丈夫ですからこちらを向いてくれませんか?」  なんとか、緊張を解そうと声をかける。 「神田様がそう言うのなら……」  小さい声でそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、顔を上げた。 「………………」  息を呑む美しさとは、間違いなくこの瞬間の為にある言葉だ。今まで、見てきたどんなものより美しい。  この国の空のような鮮やかな群青色の艶やかな髪。地球の空のように真っ青な色をした瞳、控えめな口、そして、透き通るような白い肌。 「神田様……?」  ハッとした。完全に吸い込まれるように見惚れていた。 「すみません」 「姫様、神田様、お二人で少しお話してはいかがですか? せっかく来ていただいたので。後ほど、おいしいお菓子をお持ちいたします。それでは」  京太郎は、一礼して、部屋から出て行った。 「……どうぞこちらへ」 「ありがとうございます」  薄黄色のふかふかなソファに座ると、二人分程あけたところに姫様がそっと座った。 「──神田様、来ていただいてありがとうございます」 「いえ、こちらこそこんな素敵な場所に呼んでもらえてうれしいですよ」 「……」  姫様は、頬をピンク色に染め、下を向いた。 「姫様は、恥ずかしがり屋なのですね」 「え、ええ。というより、男性とこうして話すことがあまりなくて……」 「そうなんですね。まあ、俺もこんなかわいい女性と話すことなんてないんですけどね」 「え……」 「え……?」  しまった! つい口から本音が……。こういう時、女性との経験が少ないことを恨む。 「す、すみません! つい……」 「い、いえ。ありがとうございます」 「あのう、一つ聞いてもいいですか?」  俺は、一番の疑問をこの際、ぶつけてみることにした。 「なんですか?」 「なぜ、俺なんですか?」  すると、姫様は大きく目を見開いて、固まってしまった。 「姫様?」 「は、はい! えーっと、それはその……。神田様はお優しいからです!」  意外な返答に戸惑う。今までそんなこと言われた記憶がない。 「優しい?」 「はい。とてもお優しいです」 「あの、なぜ俺を知っているのですか? どこかでお会いしました?」 「……実は、下界に降りることが多々ありまして、その時にお会いいたしました。そして……お助けいただいたのです」  助けた? こんな美女を? いや、一度会えば忘れるはずがない。目に焼き付くほどに美しいのに。 「俺は覚えていませんけど……」 「そうだと思います。でもこれではどうです?」  そう言うと、また真っ白な猫に変わった。そして、近づき、俺を見つめた……。  真っ白な猫……青い瞳の猫……青い水玉模様で鈴のついた首輪……。 「あっ! 思い出した! 大雨の日、公園のベンチの下で動けなくなっていた猫がいたんだ。そして、そのそばでカラスが狙ってて。だから、抱きかかえ、建物の下に連れていったんだ」 「そうです。その時の猫です」   そして、また人へと戻った。 「あの時、カラスに狙われていたんです。そしたら、神田様が抱きかかえてお助けくださったんです。そして、持っていたハンカチで体を拭いてくれて。そして……ご自分の傘を私の為に置いていってくださったのです」  そうだ。偶然持っていたハンカチで、濡れていた体を拭き、これ以上濡れないようにと、傘を置いていったんだった。  姫様は立ち上がり、クローゼットを開け、何かを取り出し戻ってきた。 「これは……」 「はい、その時の傘でございます。大切に、今でも持っています」  こんな古びた傘を、大切に持ってくれていたなんて。 「神田様は濡れて帰られて、そのあと風邪をひかれたんですよね?」 「どうしてそれを……」 「実は、あのあとすぐここに帰ってきたのです。そして、神田様をここから見ていたのです……あっ、でも部屋の中を見たりとかではなく、外にいる時だけしか見ることができませんのでご安心ください!」  ほっと胸を撫でおろす。 「神田様はご自身のことより、猫のことを優先されたんです。そんな優しさに惹かれ、さらに、外で神田様を見ている時、数々の優しさを拝見したのです。例えば、妊婦の方を助けてあげたりですとか、迷子になった子どもに付き添い、交番までついて行ってあげたりですとか……」  そういえば、そんなこともあったな。でも、自分では普通だと思っていたし、それを褒めてくれる人などいなかった。 「俺は、人に褒められたことなんてほとんどありませんよ。仕事でミスばっかりで怒られることはあっても、褒められることなんて……」 「いえ。神田様はとても素敵なお人です」  こんなまっすぐな目で、はっきり言われると、さすがに照れ臭い。 「そうだ、一日しかいられないことは聞きましたか?」 「はい、聞きました。時間を過ぎると、下界では亡くなったことになってしまうと」 「そうなんです」 「そうだ! 姫様、今、日本が干ばつで被害がたくさん出ているんです。どうか雨を降らしていただけませんか? 京太郎さんから事情は聞きました」 「わかってはいるんです。でも、それができなくて……」 「できない?」 「はい。雨を降らすとき、私は、ある言葉を唱えるです。しかし、神田様のことを考えるがあまり、その言葉を忘れてしまったのです」 「え? 忘れちゃったんですか? それはどこかの書物とかに記してあるとかは?」 「この言葉は他言してはいけないことになっていて、引き継ぐ者に直接口頭で伝えられてきたのです」 「それじゃ、日本は……」 「なんとか思い出します! こうして神田様も来てくれましたし」 「でもどうやって……」 「そこなんですよね……」  二人、考えこんでしまった。 「とりあえず、色々話しをしているうちに急に思い出すかもしれませんから、なるべく、いつも姫様が話さないようなことを話しましょ。脳の刺激になって思い出すかもしれない」 「──そうですね。そうします!」  こうして、俺が下界に帰るまでの時間、なんとか姫様に言葉を思い出してもらえるように、協力することになった。 「姫様、神田様。夕食のご用意ができましたので、広間へお越しください」  京太郎に連れられ、広間へ向かった。 「わあ、すごい……」  雨粒の形をしたテーブルに、たくさんの料理が並べられていた。既にいい香りが広がっている。そして、姫様の前へ座った。 「どうぞ、ゆっくりお召し上がりください」 「いただきます!」  料理は下界と同じで、肉料理、魚料理、野菜のスープなど、味付けも人間とお同じだった。どれも、おいしい。 「お口に合いましたか?」 「はい、どれもおいしいです」 「それはよかった」  京太郎は、そう言うと、キッチンへ下がっていった。 「姫様、いつもこんなにすごい料理食べているんですか?」 「いえいえ、まさか。いつもはもっと質素です。この国の人達は贅沢を好みません。それより、味にこだわったり、着るものをこだわったりと、丁寧に暮らすことを好みます」 「素敵ですね。俺も丁寧な暮らしに憧れます。実際は仕事に追われ、時間に追われ、身なりもこの通り、手をかける余裕はありません」 「そうだ! いいことを思いつきました! うちの美容師に髪を切ってもらってはどうですか? 服もこの国のものでよければ、私がプレゼントいたします!」 「そんな……悪いですよ。ただ来ただけでそんなにもてなしてもらうなんて」 「いいんです。私の大切な人ですから、ここにいる間だけでも、尽くさせてください」 ──大切な人。こんなこと言ってくれる人、今でいなかったな……。 「じゃ、お言葉に甘えて、そうさせていただきます!」 「ありがとうございます! じゃ、さっそく行きましょ!」 「え? あ、もう? これまだ食べたかったな……」  好物を最後に残すタイプが、裏目に出てしまった。 「梅雨木(つゆき)さん!」  訪れたのは、人間界でいうところの美容室のような場所だった。 「あら、もしかして、こちらの方……」 「ええ、神田様!」 「はじめまして、神田由雨季(ゆうき)です。よろしくお願いします」 「素敵な方! 姫様、お会いできてよかったですね。それで、今日は?」 「神田様をプロデュースしてほしいんです!」 「なるほど……」  梅雨木さんはそう言うと、俺を下から上までじっくりと見た。 「今でも素敵ですけど、この私の手にかかれば、もっと大人の男性に変身できますよ」  大人……。もう、三十歳になるというのに、身なりに気をつかわず、だらしない体……。 「さあ、そうと決まればはじめますよ!」 「よ、よろしくお願いします」  始まった、神田由雨季の変身作戦。  梅雨木さんは、テキパキと次々に仕事をこなしていく。その横で、姫様が優しい笑みで眺めている。  それにしても、あと、数時間しかないのに、この俺に何ができるだろうか。姫様の記憶を思い出させてあげることができるのだろうか。ある意味、日本の未来を担っていると言っても過言ではない。姫様が、思い出さなけらば、一生日本に雨が降ることはない。それは死を意味している……。待て待て、こんな一般男性に荷が重すぎるだろう。今までの人生、責任を負うようなことから逃げてきたというつけが、ここに来て回ってきたのか? いやいや、それにしたって大きすぎるつけだろ。  あれこれ考えている間に、完成したようだ。鏡を見せてもらえない俺は、そのまま梅雨木さんと姫様が選んだ洋服を受け取り、試着室で着る。 「こんな服、選んだことないな……。大丈夫かな」  一抹の不安を抱えながら、カーテンを開ける。 「ど、どうかな……」  すると、前で待っていた二人が固まっている。あれ? 幻滅させてしまったのだろうか。 「やっぱ、だめでした?」 「──素敵です!」 「素敵すぎます!」  二人はうんうんとうなずきながら、握手をしている。 「姫様の見る目はやはり……。流石です」 「わたし、神田様を直視できませんわ」  そこまで? ちょっと大げさじゃない? 「あのう、俺も見たいんですけど……」 「あー! そうでしたね。どうぞこちらへ」  大きな鏡の前へ案内され、鏡に映る自分を見た瞬間、違う人が立っているのかと思うほど変化を遂げていた。 「これが……俺?」  伸びかけの髪は、清潔感のある短めに切りそろえられ、服は、白のシャツに黒のジャケットを羽織り、ベージュのパンツに白のスニーカー。そして、重厚感のある腕時計。今までの俺にはない、爽やかさ。 「素晴らしい体験を、ありがとうございました」  梅雨木さんに深々と頭を下げ、お礼を言った。 「神田様、姫様のためにこんなところまでお越しくださったお礼です。こちらこそありがとうございました。お帰りのお時間まで、楽しんでいってください」  なんだか、一生分褒められた気がする。  いい気分のまま、部屋を後にした。 「神田様、眠たくはありませんか?」  そう言われ、もらった腕時計で時間を見てみると、時計の針は午前零時を回っていた。 「大丈夫ですよ。姫様は?」 「私も眠たくありません。それに……」 「それに?」 「それに、明日の朝には、神田様……帰ってしまうから」  そうか、あと数時間後には帰るのか。 「じゃ、朝まで起きていますか?」 「はい、そうしたいです」  にこっと笑ったその顔は、不運続きで、自暴自棄になっていた人生に、彩を与えてくれたようだった。 「そういえば、姫様はなぜ下界へ?」 「皆様のいうところの、ストレス発散ですね。この国は大きくなく、いつも同じ風景で、生まれた時から決められた道を進み、この使命を当たり前のように 引き継ぎました。ですから、たまに息が詰まりそうな時があるんです。そんな時は、目立たぬよう猫に化けて、下界へ降り、自由に過ごす人たちを見たり、知らない場所へ行ったりして、気持ちを切り替えているんです」 「姫様も大変なんですね。こんな綺麗な国で暮らしているから、てっきり不満なんてないのかと思いました」 「もちろん、いい所ですし、いい人ばかりです。楽しい事もたくさんある……。十分幸せだったんです。でも最近は……」 「最近は?」 「神田様と出会ってから、全てのことが意味のないように感じてしまうんです」 「えっ?」 「神田様と出会って、あの優しさに触れたことが忘れられなくなってしまったのです。あの時感じた幸せと比べると、何もかもちっぽけに感じてしまって……。私も下界へ行って、少しでも神田様のそばにいたいと思ってしまったのです」  そんなに俺のことを……。でも、それではいつまで経っても忘れた言葉を思い出すことは出来ないし、雨を降らすことができない。 「俺がいたばっかりに……。こんなことになってすみません」 「何をおっしゃるのです。私の暮らしに輝きを与えてくれたのですよ。感謝してもしきれません」 「俺だって同じ気持ちです。こんな不甲斐ない人間のことを、ここまで想ってくれるなんて、幸せ以外、思いつく言葉はありません」 「神田様……」  姫様への気持ちが、少しづづ心から溢れ出す。こんな気持ちになったのはは初めてだ。まだ、会って数時間しか経っていないというのに……。これは、自分自身に向けられた好意に対してのものではない。会ってすぐにわかっていたのだ。俺は、姫様を好きになることを……。 「私、もしこのまま、雨を降らす言葉を思い出すことが出来なければ、処刑されるのです」 「処刑……?」 「そして、新たな言葉を作り、次の世代に引き継がれるのです」 「──ということは、姫様は死んでしまうのですか?」 「はい。そう遠くないうちに……」  衝撃的な言葉に我を忘れる。 「そんなこと、俺がさせない! 俺が絶対に思い出させます! 思い出させてみせますから! 俺は命なんて惜しくない、ここに残り、姫様を守ります!」 「神田様……。神田様を好きになったこと、少し後悔していたんです。会えるはずもない、人間界の方を好きになったって、辛いだけだと。でもこうしてお会いして、やっぱり私の気持ちは、間違いではなかった……。神田様のこと、好きになってよかったです」  屈託のない、純粋なこの笑顔を守りたい。 「神田様……」  気づくと俺は、姫様を抱きしめていた。姫様は、小さく、強く抱きしめると壊れてしまいそうだ。 「俺は、姫様の笑顔を守りたい、隣ですっと見ていたい」 「うれしい……」  そして、姫様の頬にキスをした。  姫様は、その綺麗な瞳を大きく見開き、頬を赤らめ、柔らかく優しい笑顔で俺を見た。そして、一粒の涙が頬をつたう──。 「あ……!」  姫様が突然、窓へと走り出した。そして、窓を開け放ち外へと飛び出す。何が起こったのかわからないまま、俺も飛び出しついていく。 「姫様!」  俺の声は聞こえていないようだった。  そして、空へ向かって大きく手を広げ、何か、言葉を発した。  すると、群青色だった空が燦然と光輝き、その光の中から無数のてるてる坊主が下りてきた。 「これはいったい……」  そのてるてる坊主たちは、まっすぐ下界へと下降し、雲の中へと入っていった。  そして──。  その雲から、たくさんの大粒の雨が地上に落ちていったのだ。 「雨だ! 雨が降っている!」  そうか、思い出したのだ! 「姫様! 姫様!」  姫様の元へと駆け寄る。 「思い出したのですね」 「はい、思い出しました。全て神田様のおかげです」  姫様は泣いていた。それを見た俺はいてもたってもいられず、姫様を抱き寄せた。 「よかった、本当によかった。これで姫様は処刑されずに済むんですね」  俺の心は姫様で完全に埋め尽くされていた。  すると、京太郎、梅雨木さんたちが外へと出てきた。 「姫様、思い出されたのですね!」「姫様、よかった!」  どれだけ、姫様を想い、心配していたのかがわかる。  姫様を愛してくれる人がこんなにもいる……。 「姫様」 「なんです?」 「こんな俺に幸せをくれて、ありがとう。姫様のこと、ずっと忘れない……」  俺の瞳からは、次から次へと涙が溢れ、もう話すことさえできなくなっていた。 「神田様……」  姫様は、背伸びをして、俺の頬に手を添え、優しく涙を拭う。  そして、姫様を抱き上げ、愛おしい姫様にキスをした……。 「ママ―! この本、素敵なお話だったわ! でも二人は幸せになれたのかしら。ママは二人が幸せになれたと思う?」 「──もちろん、幸せになったと思うわ、とてもね。ねえ、パパもそう思うでしょ?」 「ああ、もちろんパパもそう思うよ。きっと幸せに暮らしているさ……」      
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