過去への手紙

2/3
前へ
/3ページ
次へ
   ⭐︎  ガチャガチャと兵隊靴の音が響く、俺たちの騒がしい街。勇ましい将兵たちの凱旋に沸き立つ群衆。俺たちが海の向こう、遠い凍てつく大地から故郷に戻ると、こちらにも真っ白な雪が積もっていた。船に揺られ、黒光りする汽車に乗って、見慣れた懐かしい駅に降りると、無数の歓声に出迎えられた。そんな扱いに、乾いて殺伐とした戦場から帰ってきた俺はひどく困惑した。それと同時に、勝利を死に物狂いで掴んだ実感が湧いてきた――やってやったぞ、胸を張れ、と。  しかしその陰では夫や親兄弟、息子、恋人、そしてかつて共に過ごした友を失い泣く者。そして、お前のように、元の生活には戻れない者たち。勝利の裏には、そんな奴が数え切れないほど沢山いた。あまりの対比の強さ、落差の激しさ、そして見るに堪えない戦場での惨劇。俺は唇を真一文字に結んで、固い表情のまま黙りこくっている事しかできなかった。  お前が戦争で負った傷はあまりに深くて、兵営を出ることになった。この駅を発つまでは元気だったのに。馬鹿を言い合う同期も、嫌味な古兵殿も、尊敬できる上官も、あんなにたくさん居たのに。再び故郷に戻ったのはほんの少しだけ。あとはみんな、小さくなって、袋に詰めて、俺の雑嚢にみんな収まっちまった。彼らが泣いたり笑ったり怒ったりする事は、もうない。    戦えない身体になったお前。そんなお前がどんな道を選ぶのか。正直なところ、考えたくなかった。けれど、読み書きが人より半分だったお前が物書きになりたいなんて。初めて聞いた時は耳を疑った。しかも、子供に読ませる本が書きたいだなんて。自分自身と同じように、読み書きが半分もできない子供でも読める本を書きたい――だなんて。そんな大層な事、俺に黙っていたなんて。おまけに突然、遠い遠い帝都へ行ってしまうだなんて。たとえ、兵隊をやめてしまってもお前はこの街に居るものだと思っていた。明日も明後日も、大嫌いなお前と顔を合わせるのが当たり前。そんな生活がずっと続くと思っていたのに……。そして、馬鹿で向こう見ずなお前なんぞを見送りに来た物好きな数人。その中に俺が混じっているなんて。どれもこれも、夢にも思わなかった。  実感がわかないまま、あっという間に別れの朝は来た。よく晴れた朝はやけに冷えていて、満開の桜は前の晩に降った大雨で、随分と散ってしまっていた。すっかり散った桜の枝見て、お前はいつもみたいに笑っていた。けれど、本当は夜通し泣いていたのを知っている。迷子の小さな子供みたいに、目なんか真っ赤に腫らしやがって。お前みたいな冷血漢でも泣くときがあるのかよ、そんな悪態を心の中で吐いていた。けれど、お前とのくだらなくて腹立たしい兵営生活を思い返すうちに、何故だかこっちまで涙が出てきたっけ。お前はそれを見て泣きながら笑った。俺は泣きながら怒った。お前から差し出された右手を、握ったりなんかしなかった。そうやっていつもみたいに、お前が俺を茶化すから。それで、いつもみたいに俺はお前の脳天に拳をお見舞いして。ああ、そんなお前が旅立つだなんて、嘘みたいだ。 「お前なんかきっと、すぐ飽きて帰ってくるぜ」  そう吐き捨てるとお前は白い歯を見せていたっけ。その背後、どこまでいっても先の見えない長い線路。見ていると、これからのお前の行く末を暗示しているようで、胸が苦しくなった。俺は残って、お前はゆくから。お前が歩いたかもしれない道を、俺が歩くから。歩いてゆく先、もう二度と、お前と会えないような気がして。 「本当に行くんだな」  俺の率直過ぎる問いにお前は頷いた。その透明な笑顔を見たら、また鼻の奥がツンとした。なのにお前ときたら、もう兵隊でもなんでも無くなったのをいいことに、清々しく両頬をきらきらと濡らしやがって。俺は上を向いたまま、お前の顔なんか見ないまま。たった一言だけ。 「達者でな」  その時のお前の生意気な面、見てやればよかった。どんな無様な姿か、見てやればよかったのに。俺は自分の感情と折り合いが付かなくって。お前のしけた面なんか見せられたら、我慢できなくなって、こっちまでお前と同じ顔になっちまいそうで――。  気が付けば向こうの方から黒い汽車が、ガタゴトと大きな音を立てて近付いてきていた。汽車を見ると、出征の日を思い出す。多くの見送りを受けながら、不安なんか少しも見せない勇ましい顔が、車窓にビッシリと並んでいた。俺たちもその中の一つだった。ある意味、今回もお前にとっての出征なのだろう。二度目の出征。どちらも共通しているのは、お前自身の未来がかかっているということ。決定的に違っているのは、お前はたった一人で征くということ。俺たちはその背中を見送ることしかできないこと。  間もなく、黒光りする汽車がお前の前で止まった。乗ったり降りたり、慌ただしく歩き回る人々。これは、俺たちの別れの時を意味していた。数少ない見送りの仲間が口々に餞の言葉を送っていたが、俺は何も言えなかった。顔なんか、とても直視できなかった。汽車が出る直前。やけにはっきりとした、お前の声が俺の鼓膜を震わせた。 「ありがとう」  お前が振り返ったのか、前を向いていたのか。顔を背けていた俺は知らない。ただ、最後のお前の声は、けたたましい汽笛に消えた。そして、お前は汽車に乗って消えてしまった。煙を吐く黒い塊は、あっという間に遠くへ消えた。その様子を呆然と見送る事しかできなかった。桜の薄桃色の柔らかい花びらが、俺の軍帽の庇にいつまでも乗っていた。  今でもお前が口にした初めての感謝の言葉。それが頭の奥に響いて消えてくれない。
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!

0人が本棚に入れています
本棚に追加