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あれから何度も営庭の桜は咲いて散った。数年前、風の噂でお前がこちらに帰ってきたらしい話、それにお前の居場所を耳にした。けれど今更会いに行くだなんて、柄でもないだろう、俺たち。だから、せめてもの思いでお前に手紙を書いてしまう。けれど、いざ便箋を前にすると何を書いたら良いか分からなくって、筆がピタリと止まる。頭を抱える。いつもそうだ。素直に言葉が出てこない。そうだ、昔からだ。俺は昔っから、跳ねっ返りの捻くれ者さ。そんな俺が今じゃ軍曹。自分やお前みたいな屈折して素直じゃない奴らを指導する側。奇妙なもんだ。そんな日々のことを書いてやればいいのに、俺は決まってこの文から始める。
――達者なら返事を寄越せ。
それ以降は真っ白。そんな手紙をもう何年も出している。馬鹿だと笑うなら笑えばいい。しかし返事を寄越さんお前は、もっと大馬鹿だ。今度会ったら、数年分の切手代を取り立ててやる。俺は本だって雑誌だって、普段読まないのに。書店に立ち寄った時にはふと中を覗いちまう。酒保や書店で読みもしない、つまらない雑誌を何冊買わされたことか。見えるはずも、いるはずもない、透明なお前の足跡を探すだなんてそんな馬鹿な真似。そして、今日もまた埃っぽくて、変わり映えも面白味もない大嫌いな書店に入る。目に入った適当な雑誌を読み漁る。つまらない記事。くだらない誰かの自慢話。軍上層部のお偉いさんの有難いと言われる訓示。くだらないから、目が紙面を滑ってゆく。面白くもなんともない。苦痛だ、疲れる作業だ。やめてしまいたい。何度も何度もそう吐き出したのに。やっぱり、俺は馬鹿だった。
考えてみろ。返事がない時点で、俺は既に答えを知っていたはずじゃないか。その事実を知りたくないだけではないか。怖くて考えたくないだけではないか。
――お前からの手紙の返事がないのは、俺を忘れたからかもしれない。
――否、それとも、お前はとっくに……。
あの戦いの後、持て囃されたお前たち。けれど、世間はすっかり忘れてしまっていた。あまりに酷い話じゃねえか! 路頭に迷い、落ちぶれた者も多く知っている。先に逝った懐かしい戦友の後を追う者も……。
俺は手に取った雑誌を眠い目で検める。連日の勤務の疲れからだろうか、不覚にも手から雑誌を落としてしまった。ちょうどいい。もう最後にしよう。これ以上、過去の思い出であるお前を追っても仕方がないのだから。きっぱりと、これを機に忘れてしまおう。そう心に決めた。これは俺が前に進むための第一歩。幾たびも戦友の死を乗り越えてきたが、中でもやっぱりお前は特別だった。そんな事実を今更、今日という日に初めて気がついた。諦めるくらいならば、意地を張らずに一度でも、例の住所を訪ねてみれば良かったかもしれない……。
ひっくり返した雑誌は、俺でも名前を聞いた事がある有名な文芸雑誌だった。拾い上げると、ちょうど短編の小説が載った頁。俺は何を思ったのか、その小説を読み始めた。
――あっという間に時は過ぎ去る。私は幾つもの夏を、冬を越えた。長い時の中、受け取って返事を出さない手紙は星の数ほどある。何故ならそれらは今の生活には必要がないからだ。
けれど、その中の一つなんぞは、常軌を逸している。私の身を案じている手紙なのだが、律儀に何年も何年も送ってくる。それだけなら、健気だ。
しかし、これは少なくとも、月に一通! これは残念ながら、馴染みの芸妓からの恋文などというものではない。おまけに、この執念深くて頭の固い男――そう、残念ながら相手は男なのだ――は、毎回白い便箋にたった一言だけ。それが何十通も手元にある。何年も内容が変わらない手紙を送りつけられる身にもなってほしい。大馬鹿者がいつもの決まり文句で送ってくる手紙。けれど、実はこれが案外良いもので。遠い昔を思い出しては、若かったあの頃を思い出し懐かしくなる。締切なんぞで苦しい時、実は取り出して眺めたりなんかしては勇気を貰っている。
どれ、今日は気まぐれに返事でも出してやろうか。
「頗ル、気分良シ。達者デアル……――
俺はすぐにその雑誌を数冊握り締め店主の前へ。鬼の形相でその雑誌を台に叩きつけた。茶を啜って本を捲っていた、お気楽な店主は突然の出来事に、白目を剥いてお茶を噴き出した。気の毒だが、八つ当たりのような形になってしまった。しかし、今は無関係な店主を気遣う余裕はない。鼻息を荒くして俺は半ば悲鳴のような声を上げた。
「おやじ! 売ってくれ!」
――やっとだ、やっと!
胸を高鳴らせて、柄にもなく軽い足取りで兵営に戻る。あまりに上機嫌なものだから、すれ違った兵たちが化け物でも見たかのように、揃って顔を見合わせている。だがそんなことは気にもならない。そうやって居室に戻ると、普段は表情の乏しい同室の戦友も、珍しく浮かれた表情を浮かべている。その手には封筒が二通。もしや、と思い近付くとその片方を差し出してきた。
「戻ってきたか……手紙だ」
俺は急いで送り主を確認する。そこには買ってきた雑誌で見た名前と同じ名が。小洒落て生意気な筆名に、思わず失笑する。けれど、初めて聞いた名前なのに、どこか懐かしい響きがあった。それは、俺と同じく物好きな同室の戦友も同じ考えらしかった。目を閉じると、あの日見た桜と青空、雨上がりの匂いが鮮明に蘇ってくる。俺は短気な上にせっかちだから、さっさと机の上を片付けて手紙道具を一式、引っ張り出した。
「やれやれ、今度こそ文句の一つでも書いてやるか」
今日やってしまおうと思った仕事は諦めた。便箋が真っ黒になるほどの文字を、隣でせっせと書いている戦友も同じらしかった。手紙を書き始めたが、今までの出来事が嘘みたいに筆が乗る。書き出しは迷うことがなかった。
――また、会えたな。頗る達者な大馬鹿野郎。
そうやって、不思議なくらいにサラリと手紙を書き終えてしまった。ふと見上げると、窓の外の凱旋記念の桜が三輪ほど、仲良く寄り添って散らずに残っていた。どうにか、あいつを無理矢理この部屋に引っ張ってくるまで、咲いていてくれと願うばかりである。
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