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 どこを歩いても崩れた建物ばかりだった。  広場では、崩れた噴水から水が溢れて歩道に水の帯をつくっていた。  水の帯に夕焼け空が映っていたけれども、水も空も制止していた。しんとした沈黙があたりを支配している。  歩いているのは私だけだ。まるで幻想絵画の世界に迷い込んでしまったよう。  私はこれまでどこにいたのだろう。  戦火の街を走り回る前は。  荷物をたくさん載せたトラックに乗っていたような気がする。  トラックを降りた私が対峙したのは、助けを求める無数の顔、顔、顔。  差し出された手を取って脈を測る。聴診器で心音を確認する。  折れた手足の向きをもとに戻し、添え木当て、破れた皮膚を縫合する。  浮かび上がってきたいくつかのイメージから、ああ、自分は医者なんだなと思った。  記憶の断片を手繰ることで、次第に意識が明瞭になっていく。  ここに来る直前までの状況を私は思い出した。運ばれる物資とともに私は砲撃に晒された街に入り、野戦病院で患者の治療に当たっていた。  野戦病院は本当は攻撃の対象外だったはずなのだけれど、何かの手違いが起こったのか建物が被弾して崩れ、治療中だった子どもとともに、私は崩れてきた瓦礫の下敷きになったのだった。  運ばれてきた少年は爆発物で両目をやられていた。手や足や顔にも無数の傷があったけれども、一見してひどかったのが目の部分だった。  あの子の目があんな風に大きくて澄んだ色をしていたのを私は知らなかった。  病院は停電していて、失明を防ぐための本格的な治療はできなかった。持ち込まれた非常用発電機はもっと重篤な患者に対応するために使われていた。  いや、仮に十分な設備があったとしても眼科の専門医ではない私には難しい。それらすべてを歯がゆく思いながらも、応急処置を施し、身体の他の部分の処置に移ろうとしていたところだった。大きくはないが裂傷が二か所。止血と縫合が必要だ。  子どもを腕に抱えて運んできた男性は、その子とは縁もゆかりもない相手で、ただの行きがかりなのだ、とだけ言ってその場を去った。  そうだ。私はその子を助けたあと、現地の人のつてでその子の知り合いを捜さなければと考えていたところだったのだ。  さっきの子どもに、きみはどこの誰なのと聞けばよかった。  けれどもどうしてあの子は突然消えてしまったのだろう。私が何一つ思い出せずにいるうちに。  ここは夕焼けの国?  どうして私はこんな場所に来てしまったのだろう。  そしてふと気づいた。  戦火の中を走り回っていた記憶は自分のものではない。さっきの子どもの記憶だ。それから子どもを助けた男の人の記憶。  子どもを病院に連れてきたあの男の人は、目の前で自分の息子を失った。被弾して絶命したわが子の隣であやうく命を取り止めたのが、さっきの少年だった。  彼は息子の亡骸をそのままにして、見知らぬ少年を抱えて病院に走ったのだ。そして子どもを私たちに託すと、すぐさま息子の亡骸があるはずの場所へ引き返していったのだ。  どうして私の中に、こんな風に見知らぬ人たちの記憶があるのだろう。  遠くから地鳴りのような音がして、景色が暗転した。
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