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其の一 序章
夢を見ていた気がする。
大急ぎで何かを追いかける夢は、いつの間にか何かに追い立てられる夢へと変貌していた。
後ろから迫りくる"何か"の正体もわからないまま永倉壱花(ながくらいちか)は両足を動かし続けているが、その"何か"との差は一向に変わらない。それどころか追いつかれそうになっている。
もうこれ以上は逃げられない──。そう観念しかけた時、不意に冷たい空気が頬を撫で、意識が覚醒した。
明るい室内に無邪気な雀の鳴き声が響いている。チュンチュン、チチチ……という長閑な声と、今しがた見ていた不穏な夢との間で、壱花は呻きながら身体を起こした。
何かを忘れているような気がする。見渡すと、自分の文机にきちんと折り畳まれた袴が揃えてあった。それから昨日の夜に準備した生活用品一式に着替え、ささやかな貴重品を入れた風呂敷……。
青ざめた壱花が布団を飛び出して叫ぶのと、母親が部屋に怒鳴り込んできたのは、ほとんど同じだった。
「遅刻するーー⁉」
「壱花!いつまで寝てるの!!遅刻しますよ!!」
時計を見るまでもない。壱花は髪を撫でつけ真新しい袴に袖を通し、転びそうになりながら着替え始める。
「なっ、なんで起こしてくれないの!?今日が大切な日だって知ってるでしょ!?」
「貴方が、もう私は子供じゃないんだから独りで起きますと言ったんでしょう?まさか独り立ちするというその日に寝坊だなんて、誰が想像しますか」
母親へ八つ当たり気味に言った言葉は、全て壱花自身へと返ってきた。そう、確かに昨日の夜、『これから帝都の寄宿舎で暮らすことになるのだからもうお母様の手は煩わせない』と宣言したのは壱花のほうだ。しかし夜が明けてみればこの体たらく。母親が嘆息するのも無理はない。
壱花は束ねた髪にリボンを結んで、玄関を飛び出す。
そういえば行ってきますを言い損ねたと思いながら、駅に向かって駆け出していた。
***
走って十分ほどの所に駅舎はあった。深風町の中心にある駅舎に近づくにつれ、真新しい建物も増えていく。すれ違う人も、帝都の流行に影響を受けたお洒落な人達が多くなっていった。
からりと晴れた春の晴天の下、笑い合う女学生達や自動車に乗った人が往来する道を壱花は走り抜ける。
汽車の出発時刻に間に合わなければ、あと半日は待ちぼうけを喰らってしまう。初日から何してるんだろうと自分を呪いながら、なんとか駅舎に辿り着いた。
改札を抜け、乗る予定だった汽車がまだそこに停まっていることを確認して、壱花はようやく安堵の息を吐いた。ホームは同じ汽車に乗るであろう人々でごった返している。
見送りの人達と乗客の間を急いでいると、すれ違った人と肩がぶつかった。
「きゃっ……」
「わっ!?ご、御免なさい!」
ふらりとよろけた少女は華奢だった。弾みで少女の着物の袖から白いハンカチが落ちたのを、壱花は屈んで拾い上げた。
「怪我は無い?あんまり汚れてないといいけど……」
「あ、いえ、大丈夫です」
同じ年頃であろう少女は壱花に一礼してハンカチを受け取る。その上品な所作に見惚れかけたその時、けたたましい汽笛の音が構内に響き渡った。
ハッと我に帰ると、既に多くの乗客が動き始めていた。人混みに交じって少女はうつむき加減に遠ざかっていく。その少女を護衛するかのように、数名の軍人たちが左右を固めていた。
奇妙な光景に違和感を感じて振り返ったが、既に少女の姿は人波の中へ消えていた。騒々しい発車の掛け声に背中を押されるまま、壱花は車両へと乗り込んだ。
賑わう外とは違い、客席は思ったより静かだった。向かい合う座席の一つに座ると、ようやくほっと息がつけた。
窓の外では駅員が駆け込んでくる乗客がいないか見渡している。その隣では家族らしい人達が、後ろの窓に向かって手を降っていた。
これから独り、帝都での生活が始まるのだと考えて、急に緊張を覚え始める。身の回りのものを詰め込んだ風呂敷をぎゅうと抱きかかえているうちに、汽車は甲高い汽笛と共に進み始めた。
ゆっくりと、確実に前へ。
──あぁ、この町ともお別れなんだ。
壱花は速度を上げ始めた汽車の窓から見える光景に、胸を締めつけられる思いだった。
この深風町の外に出たことも無ければ、出ようと思ったことも無い。なんとなくこの町で暮らし、誰かと結婚して……と代わり映えの無い人生を思い描いていた壱花にとって、『帝都で電話交換手、しかも真新しい寮つき』という求人に受かったことは最大の幸運だった。
両親と喜んだ日を昨日の事のように思い出す。女学校の友達も教師も、驚きながら壱花の門出を祝った。
嬉しかった。それなのに、どうして心が沈むのだろう。
憧れた帝都での暮らしが近づいてくるにつれて、浮かない気持ちが大きくなっていく。職場に嫌な人はいないだろうか。田舎から出てきた娘と嘲笑われないだろうか。
寝坊した理由を思い出して、壱花は再び暗い気分になる。昨日は初めて汽車に乗る緊張から碌に寝付けなかった。
初日からこんなことで、これから先やっていけるのかしら……。
暗澹たる気持ちで窓の外を眺めていた壱花は、耳障りな音を聞いた気がして辺りを見回した。
下から何かが軋む様な音がする──と思った瞬間、凄まじい音と振動が車体を襲った。
悲鳴が上がり、壱花を含めた全ての乗客が吹き飛ばされたように倒れ込む。
どこかで切れ切れに、脱線、という声が聞こえたのを最後に、壱花は意識を失った。
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