其のニ 巻き戻し

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其のニ 巻き戻し

 夢を見ていた気がする。  しかしぼやけた夢が何だったのか思い出せず、壱花はもどかしい気分で目を覚ました。    途端に記憶が押し寄せてきて、思わず身体を強張らせる。生々しい悲鳴、振動と恐怖、汽車と脱線……それらはまるで幻のようにかき消えてしまった。  代わりに現れたのは見覚えのある室内だ。信じられない思いで起き上がった壱花は、自分の部屋を見渡して呆然とした。  戻ってる。  寝坊しかけて、汽車に飛び乗って、それから脱線事故に遭った。しかし体のどこにも怪我は無く、抱えていた風呂敷包みも文机の上に戻っている。    そう、戻っている……。じゃああれはやっぱり夢だった?  狐につままれた気分で布団から出た壱花の耳に、母親の足音と声が聞こえてきた。    「壱花!いつまで寝てるの!!……あら、起きてたの?」  ぼんやりしている壱花が寝ぼけていると思ったらしい。母親は少し怪訝そうな顔で布団を畳み始めた。  「どうせ緊張して眠れなかったとか、そんなところでしょう。ほら、早く着替えて駅に行かないと遅れますよ」  先程見た夢と寸分違わぬ場所に置いてある風呂敷を抱えて、壱花は外へ出た。  すれ違う人や風景に既視感を覚える。それどころか、何もかも全く同じことを繰り返しているような気分になる。違う所と言えば、走っているかそうでないかだけだ。  壱花は走らなかった。特に急がなくても間に合うという奇妙な確信があったからだ。  夢より数分遅れて駅に到着すると、やはり見覚えのある人混みと駅員、軍人たちの姿があった。まるでさっきの自分に誘われるように切符を買い、改札を抜けた所で、壱花は少女とぶつかった。  「きゃっ……」    よろめいた拍子に少女の着物の裾からハンカチが落ち、思わず視線が釘付けになる。  さっきの夢と全く同じだ。落ちた角度も何もかも。  一瞬考えてからハンカチを拾い上げた壱花に、少女は小さく会釈した。    「ありがとうございます……あの、何か?」  食い入る様に少女を見ていた壱花は、はっと我に帰って曖昧に首を振った。  「ううん、何でもない……」  丁度その時汽笛が鳴り、乗客達がホームから車内へと移動し始めた。人混みに揉まれている内に、少女の姿は軍人達に囲まれて見えなくなっていた。  夢と同じ席に座り、夢と同じ見送る人々に視線を向けて、壱花は絶え間なく襲ってくる寒気を振り払おうと荷物を抱きしめる。もしもまだ夢が続いているのなら、この次に起こるのは……。  「あれは逆夢だったのよ。こんな奇妙な出来事、正夢のはずが無いじゃない」  自分を勇気づけるように呟くと、少しだけ気分がよくなった。きっと将来に対する不安があんな不吉な夢を見せたのだろう。壱花はそう結論付けると、座席に深く座り直した。  その時、あの耳障りな音が車体の下から鳴り始めた。キィキィと、そして段々とギィギィと音は重くなり、それに合わせて車体全体が振動していく。誰かの悲鳴を聞いた瞬間、壱花は反射的に目を瞑った。  こんなことあるわけ無い。いくら悪い夢でもあんまりだ──。  脱線だ、という声と共に体が投げ出される。線路と車体が擦れる音を最後に、壱花の意識は再び暗い底へ落ちていった。 ***  勢い良く布団を跳ね除け、自分の体を確かめる。中庭で呑気に囀っていた雀達は、壱花の目覚めに怯えたように飛び去って行った。  まただ。  もう誤魔化せない。夢とは思わない。  背筋に残る死への恐怖と悪寒を振り払えないまま、壱花は弱々しく室内を見渡す。あれほど出たいと思っていた自室が、今となっては信じられないほど平穏で安全に見えた。  「な……何が起こってるの……?」  駅へ行き、汽車に乗り、脱線事故に遭うまでの克明な記憶がただの夢だとはどうしても考えられない。時が巻き戻っている……そこまで考えて、あまりの奇妙な結論に乾いた笑いが零れた。  丁度その時、襖を開けて入ってきた母親が、笑う壱花を見て眉を顰めた。  「壱花、寝坊しますよ……どうしたの?妙な笑いなんか浮かべて」  「ううん、なんでもない」  鉛の様に重い体を起こしながらこの出来事を母に言うべきか悩んだが、どうせ話したところで夢でも見ていたんでしょうと言われるのがオチだ。壱花は時間の巻き戻しについて誰にも言わない事に決めた。  手際良く着替えて荷物を抱える。どこか上の空で行ってきますと告げた壱花は、母親が行ってらっしゃいと返したことにも気が付かなかった。    深風駅の入り口に掲げられた丸時計を、壱花はしげしげと眺めた。汽車が出るのは十時丁度。今は九時四十八分くらい。後十分ほどで帝都行きの汽車が出る。  これに乗らなければどうなるだろうと壱花は思考を巡らせた。次の汽車は四時間後に出発し、帝都に到着する頃には日が暮れているはずだ。  仕事は明日から始まるので、今日一日は寮長に新しい寮を案内してもらう手筈になっていた。遅れれば寮長の機嫌を損ねる恐れはあったが、それでも脱線の生々しい記憶が汽車へ乗ることを躊躇わせた。    汽車に乗ろうか乗るまいか葛藤している壱花を横目に、人々は構内へと流れていく。その後ろ姿の中に見覚えのある着物姿の少女があった。  あ、と思った時には、少女の姿は軍服の男達の隠れてしまっていた。その少女の隣に、一際冷たい目をした青年将校が控えていたことに壱花は初めて気が付いた。  先程ぶつかった時に彼はいただろうか。時間が巻き戻っている壱花にとって見ず知らず少女とすれ違うのも既に三回目だが、三回とも全く同じという訳ではないらしい。  今回の少女は壱花とぶつからず、ハンカチも落とさないまま汽車へ乗り込んでいった。壱花は迷った末、この汽車を見送ることに決めた。  改札に立つ駅員から不審な目で見られつつ、汽笛が鳴るのを待つ。人波が疎らになり、車掌の出発の合図と共に汽車がゆっくり動き出した。  壱花は時計を睨みつける。針はきっかり十時だ。    もしかしたら今までの出来事は連続した一つの夢で、遠ざかるあの汽車こそ現実だったのかもしれない。なにせ次の便は四時間後で、約束の到着時刻から大幅に遅れるのは確実なのだ。  急に自分が子供じみた事をしている気がして不安に駆られ始めた矢先、衝撃音が聞こえた。続いて鉄を擦り合わせたような音、わずかに聞こえる悲鳴。改札前にいた人も駅員も汽車が出発した線路の先を覗き込むと、誰からともなく脱線だ、という声が広がっていく。漣のように伝えられる不吉な言葉を聞きながら、壱花の目の前は暗くなっていき、そして意識を失った。  ***  汽車に乗らずとも時間が巻き戻るとしたら、どうすればいいのだろう。  自室の天井を睨みつけても答えはでない。それどころか時間がくればまたこの部屋へ戻ってくるのだ。どこかに逃げ出すこともできないとわかった今、できることは何もない。  壱花はのっそり布団から起き上がると、やってくるであろう母親を待った。  「壱花!いつまで寝て……あら、具合でも悪いの?酷い顔色だけど」  あまりにも顔色が悪かったせいか、壱花を見た母親は不安そうに尋ねる。その間も壱花はのろのろと体を起こし、機械的に着替えはじめた。  「ううん……なんでもない」  ことここに至っても、母親に奇妙な『巻き戻し』の件を話す気になれなかったのは、心配そうな表情をこれ以上曇らせたくないからだ。きっと独り暮らしを恐れるあまり、妄想に取り憑かれていると思われるだろう。  これが妄想ならどんなに良かったことか。重い体を引き摺るように荷物を抱え玄関を出る。  ふと、高い場所からなら何が起こったのかわかるかもしれないと思いついた。手掛かりが無かったとしても、汽車に乗らないことで何かが変わるかも……。  駅の方へ数歩歩いた後、思い返して反対方向へと足を向ける。一つだけ思い当たる場所があった。  深風町は山と山の狭い谷間にへばりつくようにして存在してきた。駅が出来て交通量が増えるまで、この土地には深風村という小さな村しか無かった。  住む人が増えた今、家はいっそう山間に密集して建つようになっている。壱花の家の裏手にも坂へ沿うように家が建ち並んでおり、その先にはここが村と呼ばれていた時代から続く神社が建立されていた。子供の頃から祭りといえばこの神社で行われてきたこともあって、壱花は慣れた足取りで神社へ向かった。  藁吹き屋根の農家が点在している坂を登ると、急勾配の石階段が見えてくる。朱色に塗られた鳥居は狭い石階段に比べると大きく、初めて訪れる人は圧倒されるだろう。  壱花は鳥居の下から見る風景が好きだった子供の頃を思い出し、ふと顔をほころばせる。お祭りの時は階段の端に腰掛け、良く登ってくる人や遠くに望む山々を眺めていた。  しかしこの神社で一番人気のある場所は鳥居近くでもお社の裏手でもない。こぢんまりとした境内の奥は崖になっていて、そこから深風町が一望できるのだ。木々の開けたそこからなら駅も線路も良く見える。  息を整えてから崖へ向かう。汽車の出る時刻まで、まだ時間はあるはず。巻き戻しが起こることを避けられないのなら、せめて汽車がどうなるのか知りたい。    歩く事に夢中になっていたせいで、崖の近くへ行くまでその人影に気が付かなった。  壱花が足を止めると、その小柄な人影はゆっくりと振り返った。  「……おお、お客様じゃのう。これはさっきと違うが、はて……うーむ……」  驚き固まる壱花に向かって、巫女装束の少女はなにやらぶつぶつ呟きながら、険しい顔で腕を組む。少女の黄金色の髪緋色の袴から、狐のような耳と尻尾が生えているように見えるのは気のせいだろうか?    「まぁいいわい。しかし一体何が起こっているんじゃ?何が起点になっとるかわからん事には動きようが……」  「……あの……」  おずおずと話しかけた壱花の顔を、少女は不思議そうに見つめる。  「……なんじゃ?まるでこっちが見えとるように話す奴じゃのう。考えがまとまらんから、早うどっかに行って欲しいんじゃが」  「ご、ごめんなさい。あの、でも汽車の様子を見たいんです。ちょっとだけここにいさせてください」  少女はあんぐりと口を開けて壱花を上から下まで眺め、不意に指を指して叫んだ。  「ま、まさか!?お、お主、ワシの事が見えとるのか!?」  「え、えぇ……まぁ……」  「ちょ、ちょっと待て!!なんじゃ、何が起こっとるんじゃ!?ワシと話ができる人間が、こんな時に来るじゃと……!?」  文字通り頭を抱えて、少女が蹲りかけた時だった。眼下に置かれた駅舎から汽笛の音が響き、壱花と少女は弾かれたように顔を上げた。  確か数回の汽笛が鳴らされた後、汽車が出発したはずだ。もうじき脱線事故が起こると思うと壱花の背中に冷や汗が流れた。  同じく駅を見ていた少女が、静かに口を開く。  「どうやらお前さんも巻き込まれているようじゃのぅ」  「ええ……あの、あなたは……」  「話したいのは山々じゃが、『今回は』時間切れのようじゃ。もしワシのことが知りたいなら、『また』ここに来ると良い。もう少し早く来てもらえると喋れる時間も伸びるようじゃからな」    そう言って、少女は壱花を鼓舞するように力強く付け加えた。  「ま、名前くらいは明かしておくか。ワシの名前は伊寿々都(いすずみやこ)。ここで神仕をやっておる、ただの狐よ」  「しんし……?きつね……?」  うむ、と都が頷いた瞬間、鈍い衝撃音と鉄の擦れる音がして、二人は思わず身を竦めた。  汽車の姿は建物の影になっていたが、蒸気機関車から立ち上る黒煙とは違う、くすんだ灰色の煙が上っていくのが見えた。    固唾を呑んでその光景を眺めているうちに意識が遠のいていく。壱花の時間はまた巻き戻った。
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