其の四 勇 一

1/1
前へ
/17ページ
次へ

其の四 勇 一

 五十畳ほどの広さの部屋に、(いさむ)は一人通された。  寒々とした印象を抱かせる滝の水墨画が飾られた床の間の前に、主はいない。規則的に聞こえてくる鹿威(ししおど)しの音だけが客間に響いている。  待たされるのは慣れている。勇は実家と良く似たこの座敷に親近感すら覚え始めていた。  どれ程の時間が経ったのか、音もなく開かれた障子の向こうから現れた女性は、無言で勇と相対して座った。それだけで、この女性こそ一条家の現当主である君乃(きみの)だと知れた。  「お初にお目にかかります」    そう切り出した勇に、君乃は不気味なほど無言を貫いている。美しいが、能面の様に表情の失せた顔からは、いかなる感情も読み取れない。  鹿威し以外何の音も無い沈黙の後、やおら君乃が平伏した。  「……失礼を致しました。私が一条家の十一代目当主、君乃でございます」  「陸軍大尉の秋野です。この度は我が軍の依頼を受けて頂きありがとうございました」  君乃はゆっくり面を上げて作り物としか思えない笑みを浮かべた。  「いいえ。我儘をきいて頂いたのはこちらの方。まさか直々に迎えに来ていただけるとは思ってもみませんでした」  「当然です。一条家の方をお迎えするのですから」  答えた途端、君乃の顔に作り笑いではない本物の嘲笑が浮かんだのを、勇は見逃さなかった。  「あの子の事でしたら、お気遣いなど無用でしたのに。どうぞ、実験でも何でもお使い下さい。もちろんこれは一条家の総意でございますから、意義を唱える者は一人もおりません」  つまり『彼女』の生死がどうなろうと、この家の者は誰一人軍を糾弾しないどころか、積極的に事態を収拾、隠蔽しようとするかもしれない。君乃からはそういう雰囲気が感じ取れた。  勇はこの家にとっての『彼女』の立ち位置を思い知らされ、ゾッと背筋が冷たくなった。    「そういう訳にもいかないでしょう。我が国軍は動物実験を行う機関では無い。ましてや彼女──一条幸恵(いちじょうさちえ)さんは貴女の娘では?」  「……そうでした。気分を害しましたら申し訳ありません」  悪びれた様子もなく君乃が口元を隠す。何故こんな名家と軍は秘密裏の契約など交わしたのか、勇は今更ながら疑問に思い始めた。 ***    事の起こりはこの旧家が軍へ接触した事だった。  一条家には、代々不思議な力を持つ女が生まれるとされている。この家が今日まで繁栄してきたのは不思議な力を持つ女のお蔭であり、未来予知や透視を行い、かつては名だたる者達を(かげ)日向(ひなた)に支えてきたとも言われていた。  だが時代の移ろいと共に一条家は歴史から姿を消していく。産業改革や科学の発展の裏で、一条家の不思議な力は(まじな)いや胡散臭い拝み屋と同等に見られ始めていた。  だから一条家が軍に接触し、我が一族の力が本物であるかどうか確かめて欲しい、もしも実証できた暁にはその者を好きに利用してくれても構わないと申し出があった時、軍の上層部も冷笑と困惑が半分ずつだった。一体どんな物好きが得体の知れない力を信じると言うのか。  ところが先の大戦で、軍もまた、『力』の必要性を痛感していた。  兵器による『力』には限界がある。技術的な進歩も、世界と競争しなければ得られない。他国には無い独自の『力』があれば、資源の乏しい我が国も、列強諸国に肩を並べることができるのではないか?    それこそ笑い種だ。  勇は、一条家の者を軍の施設まで移送する任務を聞いた時、どう返答していいかわからなかった。気を抜くととんでもない皮肉を吐くか、吹き出しそうになっていたのだ。  だが会議室で向かい合う上官は、どこか憂いを帯びる無表情で告げた。  「……我が国の優位性を保つ為には、どのような不可思議も退けてはならない、というのが上層の考えだ。つまり我々は信じなければならないんだよ。若い君のほうが、こういう事を受け入れやすいと思ってだね」  「そのような事はありません。奇異な話だと思っていますが、それがご命令なら喜んで従います」  「流石は秋野中将の御子息だ、そう言ってくれると思っていた」  木製の長机の上に、一枚の切符が差し出された。  「検討の結果、汽車で帝都に来るのが一番早いという事になった。駅からの足はこちらで手配しておくから、護送のほうはよろしく頼む」  「わかりました」    切符を受け取り、会議室を出る間際、上官がぼそりと呟くの聞いた。  「……我が軍は……」  本当に信じているのか。それとも何らかの別の思惑があるのか。  いずれにせよ、命令を遂行しない選択肢は無い。父を超えなければどこにも居場所が無い勇にとって、どんなに奇妙で馬鹿馬鹿しい命令でも、出世できる機会には違いない。信じろと言われれば魑魅魍魎(ちみもうりょう)も信じるまでだ。  勇は会議室の扉を閉めると、切符を握りしめ歩き出した。  ***  物思いから醒めたと同時に客間の襖戸がスッと開き、女中に連れられた少女が現れた。どうやら君乃が呼んだらしい。  やや俯き加減の少女を残し、女中はさっさと部屋から去っていく。君乃は少女に命じた。  「幸恵(さちえ)、こっちへ来なさい」  幸恵と呼ばれた少女は怯えた目で母親の隣に座る。勇と相対した幸恵は、まるで今にも消え入りそうな声で名乗った。  「い、一条幸恵と申します……」  「今度の護衛を勤めさせて頂きます、秋野です」  「秋野様、ですね。よろしくお願い致します」    何故これほど縮こまっているのだろうか。傍から見れば、今から虎の檻にでも放り込まれる人間のように、一条幸恵は怯えていた。チラチラと視線を送るその先には、未だ娘のほうを見ようともしない君乃の姿がある。  その君乃が冷ややかに告げた。  「不束か者ではありますが、一条家の『娘のうちの一人』です。力を持っているのは間違いありません。そうでしょう?幸恵」  幸恵がビクリと肩を震わせ、更に俯く。    「娘のうちの一人、ということは他にも……?」  「ええ、勿論です。幸恵の下に一人、妹がおります」  当たり前でしょうと言いたげな君乃の言葉に、内心腹立ちつつも納得する。たった一人の次代当主候補を、一条家が軍に差し出すはずはない……とすれば他に候補がいると見るのが当然だ。幸恵は、母親の君乃から不要だと告げられたに等しい。  「すみません。時間なので失礼致します。外で部下が待っておりますから……」  「そうでした。では、よろしくお願い致します」  うんざりする会話を切り上げ席を立つ。君乃は部屋を出る二人を見送るでもなく、能面のような無表情のまま、微動だにせず虚空を見つめていた。  ***    幸恵は驚くほど喋らない少女だった。同行した部下たちがあれこれ聞いても、はい、いいえと答えるだけで会話らしい会話もない。荷物も呆れるほど少なく、一体この娘は今回の話をどう伝えられているのかと勇は内心鼻白んだ。    駅に到着し、車から降りた幸恵が深々と息を吐く。  「具合でも悪いのか?」  まるで目の前に突然人が現れたかのように、幸恵は飛び上がって首を横に振った。  「い、いえ!大丈夫です」  「自動車は乗り心地が悪かったな。まぁ、汽車は多少マシだろう」  「はぁ……」  幸恵はやはりどこかぼんやりした様子だった。ため息をつきたいのはこちらの方だと言いたいのを堪えて、勇は時刻の確認に意識を切り替えた。  駅員に聞くと、後十分ほどで出発時刻が来ると言う。予定通りだ。  礼を言って部下がいる場所まで戻ると、幸恵が走り去っていく少女の背中を見ていることに気が付いた。  「知り合いか?」  「いいえ。ちょっとぶつかっただけです」  「そうか、気をつけろ」  我ながらぶっきらぼうに言い過ぎたと反省する間もなく、汽車に乗り込む人々の喧騒が一気に大きくなる。この小さな町にしては驚くほど多くの乗客が改札を通り抜けてホームへ入ってきた。  やがて高らかに汽笛が鳴らされ、指定席に座った勇達はようやく息を吐いた。  他の乗客から多少奇異の目で見られるのは仕方がない。適当に話をでっち上げ、いざとなれば権力をちらつかせればどうにでもなるだろう。  しかしそんな考えも杞憂に終わりそうだ。他の乗客は軍人の一団をちらりと見ただけで、あとは目的地である帝都の話に終始していた。親子連れや背広を着た紳士、大きな鞄を抱えた商売人らしき男女などで、席はほとんど埋まっている。  勇の隣に座った幸恵が、ふと思い出したように呟いた。  「……いいなぁ」  動き出した車輪の音で消えそうなその声には切実さが滲み出ていた。  何がと気軽に聞くことも躊躇われて、勇は黙ったまま外を眺める。  どうせ軍の研究施設までの道のりだ、無理に会話をすることはないと思いながら、この沈黙に居心地の悪さを感じているのも事実だ。何故かずっと見られているような感覚が消えない。  まぁどうでもいい。帝都に着けば任務は終わったも同然なんだ。  汽車は重たげな蒸気駆動の音を響かせて線路を走り続けている。あと少しで深風町の外に出る。数刻も行けば帝都に着くだろう……。  不意に眠気が襲ってきた。慌てて瞬きをするが、眼前の暗さは消えない。  なんだ、これは。目は開いているはずなのに、まるで日の入り時のような薄暗さだ。暗闇が一層濃くなり、意識が完全に消えてしまう直前、再び幸恵の声を聞いた気がした。  「いいなぁ。私も、本当は……」
/17ページ

最初のコメントを投稿しよう!

11人が本棚に入れています
本棚に追加