其の四 勇 ニ

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其の四 勇 ニ

 一歩、車から降りた体制のまま、勇はぎょっとして固まった。  ──何故自分は?  記憶の中では確かに帝都行きの汽車に乗ったはずだ。定刻通り発車した汽車に、幸恵と部下たちと共に乗っていた。それが。  勇は目の前にある深風駅舎を見上げて困惑した。時計の針は十時の十五分前を指している。  時間が戻っている……?いや、そんな馬鹿なことがある筈無い。    「どうかされましたか」  部下の一人から声をかけられて、思わず「何でもない」と返した。まだ怪訝そうな顔の部下に向かって手を横に振ると、ようやく引き下がった。  改札を抜ける。駅員と話す為、少し離れる。そして戻ってきた時に幸恵は誰かの背中を見つめている……。  先程と同じ光景にどこか寒気を覚えながら、勇は自分に言い聞かせ続けた。あの汽車に乗った記憶は白昼夢だ。気疲れから奇妙な夢を見ただけだ。  再び汽車に乗り込むと、途端に不安が襲ってきた。また駅に到着した時間に戻されるのではないかと言う妄想が、頭にこびりついて離れない。  「……あの、大丈夫、ですか?」  今までほとんど意識の外にいた幸恵が話しかけているのだと、勇はようやく気が付いた。どうやら幸恵のほうも勇気を出して声をかけていたらしく、どこか泣きそうな顔でこちらを窺っている。  「あぁ、大したことじゃない。移動が……そう、移動が苦手なんだ」  嘘を言ったつもりはなかったが、幸恵ははぁ、と気の抜けた返事をして再び押し黙った。動き出した車内で、勇は窓の外を眺める。  今度こそ帝都に着くはずだ。先程の記憶は疲れが見せた幻覚のようなものだろう。それに、一条家の奇妙な力の話を聞いたことも影響しているのかもしれない。  誰かに言い訳するように自己分析をしていると、目の前が薄暗くなっていることに気が付いた。慌てて目を擦るが、消えない。  「そんな……」  あ然としている内に、闇がどんどん深くなる。そんな馬鹿な。  しかし、この光景は確かにさっき──  同じだった。  車から一歩降りた姿勢のまま、勇は覚醒する。咄嗟に駅舎を見上げて時計を確認すると、針は十時前を指していた。    同じだった。  何も、一つも、変わっていない。  「……はぁ?」  また出発時刻前に戻されているのは間違いない。だが、それが何故、どうやって起こっているのか全くわからない。  気分が悪い。  「あ、あの……秋野様?寒いですか……?」  顔を上げると、不安そうな幸恵と、やはり不安そうな部下たちがいた。どうやら自分が震えているらしいと気がついて、勇はゆっくり首を横に振った。  「どうも、気分が優れない」  「では、どこかで休んでから出発しますか」  部下の提案にやはり首を振る。出発、という言葉が首元でチリチリする。  「いや、定刻通りに着く手筈になっている。済まないが彼女を連れて先に行ってくれ。帝都で落ち合おう」  「しかし、それは……」  「勿論、俺は命令違反の処罰を受けるだろう。だが皆には迷惑をかけないように計らう。あと少しなんだ、時間通りに進めてくれ」  部下達は戸惑った表情で互いを見合い、やがて心を決めたように頷いた。  「わかりました」  「すまん。良くなったら直ぐに追いかける」  「こちらのことは任せてください。どうか無理をなさらないように……」    そう言い残して改札へ消えていく軍人たちの後ろ姿を見送り、勇はぐったりと脱力した。何をしているんだ俺は、と自虐的な笑いさえ湧いてくる。  しかし一方で、刻一刻と迫ってくる汽車の出発時刻に僅かな希望を見出しているのも確かだ。もしかすると自分が乗らないことで時間の『巻き戻し』は起こらないかもしれない。  『巻き戻し』……この現象は時間が巻き戻っているとしか考えられない。正確な時刻は不明だが、汽車の出る十五分前から、出発してしばらくの間を行ったり来たりしている。だが巻き戻っているのは勇一人だけのようだ。他の乗客は先程と変わらない様子で駅舎へ歩いていく。    もしもまた巻き戻ったら……。いや、今度こそは大丈夫だと勇は自分に言い聞かせる。  祈るような気持ちで時計を睨みつけていると、天を突くような汽笛の音が響きわたった。やがて汽車が動き出し、見送りを終えた人達がぞろぞろと駅舎から出てきても、勇は線路の先と掛時計を交互に見続けた。    そろそろ汽車が町の外に出る。『巻き戻し』は起こらない。  「やっぱり……」  あの汽車にさえ乗らなければ巻き戻されないんだと確信しかけた瞬間、再び幕が引かれたように目の前が薄暗くなっていく。  そんな馬鹿な。  では俺は、どうやったらこの繰り返す時間から出ればいいんだ?  ***  車が駅舎に着く。改札を抜ける。汽車に乗り込み、出発する。  たったこれだけの時間を、勇は既に何回も繰り返していた。  あれから何度巻き戻されたか覚えていない。気がつくと車から降りる瞬間に戻されている、その繰り返しだ。  勇も手をこまねいていた訳ではない。考えられる限りあらゆる手段を講じてこの『巻き戻し』から脱出しようと試みた。  ある時は徹底的に反抗し、本来の任務を投げ出した。ある時は、自分と同じように時間が巻き戻っている者がいないか手当り次第に聞いて回った。最早地位や立場を投げ捨てたその行為に部下や幸恵は驚いているようだったが、気にかけている場合ではなかった。  だが、その努力は全て無駄に終わる。そして一つの可能性が潰される度、勇の心は絶望を深めていった。  数百の試みのあと、勇は無気力に繰り返す中で、あるひとつの仮説に行き着いた。  ──帝都行きの汽車が深風町から出なければ、巻き戻しは起こらないのではないか。  だが、実証するにはあまりにも時間が無さ過ぎた。どれほど時を繰り返しても、定刻通りに汽車は出発してしまうのだ。  駅員を何度も説得し、何度も脅し、何度も懇願して、幾度となく発車の取り止めを約束させた。しかし汽車の出発を阻止することはできない。  幾度も遠ざかる車体を見送り、もしくは汽車が町境に近づいては巻き戻される内に、勇は狂気的な考えに取り憑かれるようになっていった。  「……進むからいけないんだ」  唐突に話し始めた勇を、前を歩いていた部下が訝しげに振り返る。「何か言いましたか?」  しかし会話を放棄して勇はぶつぶつと呟き続ける。    「この汽車が鍵なんだ。深風町から出ようとするこの汽車さえ無ければ、あるいは……」  他の軍人は互いに目配せして、急に奇妙なことを口走り始めた若い上司をどうしようかと思案している。隣にいる幸恵も不思議そうに立ち止まった。  突然、勇は弾かれたように無言で走り出した。  「秋野大尉!どちらへ……」  驚いて叫ぶ軍人達に目もくれず、改札を駆け抜けて駅務員室へ飛び込むと、出発準備に追われていた駅員たちは目を白黒させて勇に視線を向けた。  この光景は見慣れてしまっている。ここで何度汽車を出発させないよう話したかわからない。しかし、もう駅員に話しても無駄だと知っていた。  汽車は必ず出発する。走り出した汽車を止める方法、しかも町から出るまでの短い間に止める方法などそう多く無い。  だが、どんな手を使っても止めなければ。例えこの汽車を──。  「ど、どうされました?」  恐る恐る尋ねる駅員を無視して、勇は駅務員室を一つ一つ見渡す。壁に貼られた時刻表、並べられた机、積まれた書類の山……。  「工具はどこだ」  「はい?工具?」  「そうだ。蒸気機関を整備する工具一式だ」  「あの……お言葉ですが、何故そんなものを……」  イライラする。こいつらは事の重大さがまるでわかっていない。  「理由は後で説明する。とにかくそれが必要なんだ」  「よくわかりませんが……工具でしたら、ここを出て隣の倉庫に保管してあります」  「ありがとう。少し借りる」  「えっ」  あたふたして椅子から立ち上がる駅員を無視して、勇は隣の倉庫を開けた。南京錠が下がっていたが、出発前だからか普段から横着なのか、鍵が刺さったままになってる。  倉庫の扉は開いたものの、ごちゃごちゃと積まれた木箱や様々な工具に圧倒された。この中から最適な道具を見つけなければならない。  だが、そんなことは些細なことだ。  「すみません!いくら軍の方とは言え困ります!」  後ろから肩を掴まれる。振り返ると青ざめた駅員たちが数人、倉庫の入り口に集まってきていた。どこか不安そうにしている駅員たちに向かって、勇は微笑みかけた。  「いや、やはり必要なくなった」  肩透かしを食らった顔をする駅員たちの間をすり抜けて部下たちの待つホームへ戻ると、幸恵が少女の後ろ姿を見ているところだった。どうやら幸恵が通行人の少女とぶつかるのも汽車の出発同様決まっている事らしく、勇はその瞬間を度々目撃していた。    「どちらへ行っていたんですか?」  どこか咎めるような部下の声に苦笑いを返す。  「いや、申し訳ない。急に気分が悪くなって」  会話など適当に返しておけばいい。どうせ時間が巻き戻れば、誰も勇の行動など覚えていない。  勇は先程見た倉庫の中で使えそうな物を思い出しながら汽車へと乗り込んだ。    ***  もう駅員に聞く必要はない。何度目かの繰り返しの後、勇は工具を持ち出して蒸気機関車の周囲を彷徨いていた。  最初のうちは駅員に見咎められることもあったが、時間を繰り返して彼らの移動経路を記憶してからは、特に妨害されることも無くなった。車体の裏にいればホームにいる乗客からもそうそう見つからない。  駆動輪の間をくまなく見て歩き、ようやく細工できそうな部分を見つけた時、勇は湧き上がる笑みを堪えられなかった。  ようやく、この馬鹿げた繰り返しに一矢報いる事ができる。何をしてもまるで暖簾を押しているように手応えが無かったが、やっとこの手で未来を変えられるのだ──。  『巻き戻し』に囚われた勇は既に、自分が手繰り寄せる未来がどんなものか想像すら出来なくなっていた。
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