其の五 幸恵 一

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其の五 幸恵 一

 急に目の前が暗くなった、と思う間もなく、耳元で聞き覚えのある笑い声がした。  「だーれだ?」  「……こんなことするのは小春ちゃんしかいないでしょう」  「あれ、バレちゃった。ねえ様、今度はねえ様が小春に目隠しして!」  「小春ちゃんだってわかってるのに、目隠ししても意味がないんじゃ……」  そう言いつつ、幸恵は妹の目を手で塞ぐ。妹の小春ははしゃぎながら、幸恵の手の上に自身の手を重ねた。  「うーん、何も見えないわ!もしかするとねえ様のような……でも違うかも……」    真剣な言い方に幸恵は思わず吹き出す。あまり陽が射さない自室にぱっと明かりが灯ったように、二人の笑い合う声が響いた。  一条家という名家の生まれにあって、小春は信じられないほど天真爛漫な少女に育った。旧家特有の、世に言う姉妹の確執も、意地悪も、幸恵と小春には全く縁がない。  幸恵は時々、口さがない女中達が自分の事について話しているのを聞いた。大抵暗いだの気が利かないだのといった愚痴の延長のような話だ。しかし妹の悪口は一度も聞いたことが無い。  あれほど一条家の血筋に拘る母ですら、小春の前でははいはいと何でも頷いてしまう。いつもは冷たく無表情な母親が、小春の我儘に振り回されながらもどこか満足そうに微笑む姿は、娘の幸恵ですら信じられないものを見る思いだった。  だからだろう。ある日母から呼び出され、面と向かって「貴方に一条家は継がせない」と宣言されても、幸恵は動揺しなかった。むしろ小春ちゃんに継がせても大丈夫だろうかと不安を覚える。  しかし心の奥では、あの子にならこの家を任せられる、という確信があった。きっと古い因習と(しがらみ)に囚われた一条家に、新しい風をもたらしてくれる……。  「──あの子は力の使い方も上手ですから、心配するに及びません」  はっと顔を上げると、いつものように無表情の君乃と目があった。その冷たい眼差しは、今しがた幸恵の心を読んだことを告げていた。  一条家の『力』があれば、娘の心の内を読むことなど容易い。  「貴方は自分の心配をしなさい、幸恵。一体いつまで強情を張るつもりですか」  「いえ、強情を張っているつもりは……」  言葉を詰まらせる幸恵に、君乃はどこまでも冷淡に告げる。  「何故、『力』を使わないの」  幸恵はやはり、答えられない。ただ母親の前で小さく項垂れるだけだ。  やがて君乃は呆れたようにふぅ、と息を吐いた。  「わかっているでしょう。貴方はこの一条家の中でも抜きん出た『力』を持っているのよ。それを何故、使わないのです」  「私は、お母様や小春ちゃんのように上手く『力』を扱えません。それにもし、この『力』で誰かを怪我させてしまったらと思うと……」  それは幸恵の本心だったが、君乃は怒気を含んだ穏やかさで言った。  「そんなものを恐れて『力』を使わないと言うんですか。使わなければ無いものと同じ。それは一条の者として認められないことです」  別に認められなくてもいい、と言いかけて慌てて言葉を飲み込む。沈黙する幸恵に、君乃はもう一度嘆息した。  「貴方もわかっているでしょうが、一条家に生まれた女は嫁に出られず、婿をとるようになっています。が、『力』を使わない貴方には婿も居場所も不要でしょう。明日、軍の方が迎えに来ますから、その方々について行きなさい」  「……軍の方が、ですか?」  「そうです。我が国にとって、一条家の者が非常に有益な人材であることは間違いありません。貴方とて一条家の血を継ぐもの。せめてお国の為にその『力』をつかいなさい」  全く話が見えない。「ちょっと待って下さい」と断りを入れながら、幸恵は混乱する考えを纏めようと必死だった。  「ど、どういう事なんですか?どうして軍の人が?」  「何も不思議では無いでしょう。一条家は昔から(まつりごと)にも外交にも深く関わってきました。その対象が軍になっただけの事です」  「そういう事では……そもそも、私如きが一条家を代表して行くなど、荷が重いと思うのですが」  「代表?誰が?何か勘違いしているようですから、この際はっきり申し上げましょう。幸恵。貴方はこれから一条家を担う小春の邪魔になるのです。『力』を使わない貴方をこの家に置いておく道理は無い」  あまりにもきっぱりと言い切られた為、幸恵は言葉を失って黙り込んだ。  沈黙する娘と対象的に、君乃は少し声を和らげながら続ける。  「幼い頃の貴方は、他のどの血族よりも『力』を持っていた。小春よりも。私よりも。一条家きっての才女と謳われた私の祖母よりも……貴方こそこの家に相応しい人間だったのですよ。だからこそ私は悔しい。幸恵、何故貴方は……」  不意に、かつて見た光景が脳裏に蘇った。  倒れて動かない馬。壊れた馬車。女性の悲鳴と小春の泣き声……。  幸恵は思わず頭を抱えて呻く。  私は『力』を使わないんじゃない。使んだ。  ***    まだ幼かった頃、幸恵は『力』を当たり前のように使役していた。息をするように相手の心を読み、明日の天気を予言し、すれ違う人の寿命を無邪気に言い当てていた。そうすればいつだって母は上機嫌だったから、幸恵は少しも『力』を使う事を躊躇わなかった。  それは妹の小春が生まれても変わらなかった。小さくて脆い妹の姿を見て、幸恵は密かに誓ったのだ。  この『力』は、小春ちゃんの為に使おう。妹を守る為、そしてお母様に喜んでもらう為に使おう。  数年後、好奇心から館の外に迷い出た小春を追いかけて、幸恵は一人道を駆けていた。  女中や母の目を盗んで遊ぼうとする小春を連れ戻すのはいつも幸恵の役目だ。ねえ様とかくれんぼする!と外へ飛び出した小春を追っていた幸恵は、誰かの叫び声を聞いて立ち止まった。  雪がちらついていた。道の真ん中に立った小春が、こちらに向かって手を降っている。  ねえ様、こっちこっち、と呼ぶ妹の向こう側から、嘶きと共に一頭の馬車馬が狂ったように駆けてくるのを見て、幸恵は息を呑んだ。  何かに驚いたのか、馬は制止する御者を振り落とし、我武者羅に突っ込んでくる。小春が騒ぎに気づき後ろを振り返った時には既に、暴れ馬は目と鼻の先まで迫ってきていた。  ──危ない!  幸恵が咄嗟に使った『力』は、小春以外の全てのものをなぎ倒した。  その後の記憶は、朧気ながらにしか残っていない。瓦礫(がれき)と化した馬車、倒れた馬、そして恐ろしさのあまり泣き続ける幼い妹。  それでも気を失う直前、幸恵は自分の行動に満足していた。  よかった。小春ちゃんが無事でよかった。  しかし次に目が覚めた時、幸恵は『力』の恐ろしさを思い出して震えながら泣きじゃくった。  もし『力』が小春ちゃんに当たっていたら。ピクリとも動かなくなった馬の姿を思い浮かべるだけで、恐怖のあまり息が苦しくなる。  その時から、幸恵は『力』が使えなくなった。  母が自分に失望するのはわかっていたが、どうすることもできない。『力』を使おうとすると、幼い時の光景を思い出して我に返ってしまう。  唯一の救いは小春が事故のことを何も覚えていない点だ。無邪気に自分を慕う妹を見て、幸恵は何度も無事を噛み締めた。  私の『力』は小春ちゃんを救った、それでいいじゃないか。他にはもう、何も欲しくない。  ***  だけど、現実はどうだったか。  母である君乃の失望がこれほどだと思っていなかった。恐らく長女に期待していた分、裏切られた様に感じたのかもしれない。  だとしても、それがどうして軍に繋がるのかわからない。一条家は見返りのある政治家を相手にしてきたのであって、今まで軍と関わりを持ったことは無いはずだ。だからこそ明日から軍の施設へ赴けと言う母の命令は意外だった。  幸恵の疑問を感じ取ったのか、君乃は畳の上に一枚の紙を差し出す。  びっしりと文字が書かれている紙は、どうやら雑誌の切り抜きの様だ。文字を目で追いながら、幸恵は無意識に眉を顰めた。  『科學至上の時代来たる──に注意!  (かつ)ては人の弱みにつけこんで、有りもし無い超能力を(うた)っていた詐欺師共も、最近では鳴りを潜めてゐる。或る者は千里眼で法螺を吹き、或る者は手を使わず箱の中身を言ゐ当てると(うそぶ)く。しかし、新しゐ時代が到来した今、其の様な子供騙しは通用しなくなった──』  それは普段なら誰も読まないような雑誌の記事のようだった。噂話と荒唐無稽な言いがかりで構成された紙面は、詐欺に騙される人をこき下ろしている。  だが一番糾弾しているのはペテン師だと言う超能力者だ。摩訶不思議な『力』などこの世に存在しない。世の中は科学によって成り立つのであり、超能力はペテン師の生み出した騙しの技術なのだ──雑誌の記事はそう訴えている。  「こんなものを信じるのですか?」  思わず口をついて出た言葉に非難が滲む。  今までも一条家の『力』を疑う者は多かった。呪い、拝み屋、インチキの家。ペテン師など何度呼ばれてきたかわからないほどだ。それもこれも全て政治家を後ろにつけて(かわ)してきた。  そんな背景を母が知らないはずは無い。どんなに民衆が指差しても一条家の『力』は本物であり、それこそがこの家の誇りだったはずだ。  「時代が変わったのです」  「時代?」  「今までも散々疑われてきましたが、記事になったことはありません。あったとしても僅かなものでした。しかし最近は技術礼賛の影でこの様な記事が増え、それに伴い公然と『力』を否定する輩まで出てくる始末」  君乃は更に数枚の記事の切り抜きを差し出す。どれも似たような内容だった。  「でも……そんなことは今までだって……」  「ええ。今までは政治家の影響力を借りて切り抜けてきました。しかしこれからは更に強力な後ろ盾が必要となるでしょう。それに、もしも一条家の『力』が証明できれば、疑っている者たちも大人しくなると言うものです」  幸恵は弾かれたように頭を上げて君乃を見た。  「それは……」  「『力』を実証しなさい、幸恵。貴方は本物だと、世間に向かって証明するのです」
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