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其の五 幸恵 ニ
ぼんやりと廊下を歩いていた幸恵は、自分を呼ぶ声にしばらく気が付かなかった。
先程聞いた話が頭にこびりついて離れない。時代が変わったのだと母は言った。一条家も世の流れにあわせて変わっていかなければいけないのだと言う母の言い分も理解できる。だが実際は、『力』の実証という名目のもと、小春の邪魔になる幸恵を体良く追い出したに過ぎない。
鬱々と歩く幸恵の手に何か温かいものが触れ、思わず悲鳴を上げると、すぐ後ろで「ひゃっ!?」と小さい声が上がった。
「そ、そんなに驚かないでよ!」
「小春ちゃん!?もう、びっくりした……」
「さっきから呼んでたのに、ねえ様が気がつかないんだもん。ぼうっとして、どうかしたの?」
小春がちょこんと首を傾げると、蒲公英色の着物と相まってまるでヒヨコのようだ。
「何でもないわ。それより、何か御用?」
「うん!ねえ様、これあげる!」
差し出されたのは、何の変哲も無い一枚の白いハンカチだ。丁寧に畳まれた綿のハンカチを、幸恵は戸惑いながら受け取ろうと手を差し出した。
「ありがとう。でもどうして……」
その幸恵の手をハンカチごと包み込む様に、小春がきゅっと握りしめる。ますます困惑する幸恵に向かって小春はにっこり笑った。
「ねえ様、あのね。風が吹いたら、飛んでもいいのよ」
「……え?どういう意味?」
「そういう時が来たら迷わなくてもいいの。凧だって鳥だって、風が来たら飛ぶでしょう?ねえ様は立派な翼を持ってるんだから、我慢せずに広げればいいのよ」
『力』の影響なのだろう、小春は時々こういう理解し難い話をする。それは夢を見た時の寝言のようにはっきり話すものの意味のない言葉が大半で、小春本人も言ったことを忘れてしまうらしかった。
「ありがとう、小春ちゃん」
意味はわからなくても、何となく元気づけようとしてくれているのはわかる。幸恵は微笑んで、このあどけない妹の手を握り返した。
ごめんね、小春ちゃん。貴方を一人この家に置いていってしまう私を許して。
小春ちゃんは『力』の使い方も知っているし、何より、お母様よりも優しくて強い。だからきっと、この古い因習に凝り固まった家に新しい風を吹かせてくれる。私なんていなくても、きっと。
こんなことを考えるのはずるいだろうか。嫌な事を全部妹に押し付けているようで、貰ったばかりのハンカチを握りしめる。
楽しそうに走り去る小春の背中を見届けてから、幸恵は自室へと戻っていった。
***
翌朝、我ながら笑ってしまうほど少ない荷物を抱えて家を出ると、既に軍人達が門の前で待っていた。
迎えに来ていた青年将校はまだ若い。秋野勇と言う青年将校は代々優秀な軍人の家柄で、父も祖父も大将の近くまで上り詰めたのだと聞いていた。自分とどこか似たものを感じて、幸恵は隣に座った勇をちらちら観察した。
自動車で駆け抜けていく町はよく晴れていた。道行く人たちはめいめい歩き、挨拶をかわし合い、子供たちは走り回っている。誰もが楽しそうだと気づいた幸恵は、どこか寂しい思いで俯いた。
軍の人たちは思っていたよりも優しく言葉をかけてくれるが、それでこれからの不安が消えるわけでもない。
──せめてこの青年がわかってくれればいいのに。一方的で我儘じみた感情だとわかっていても、今は誰かとこの息苦しさを共有したいと思ってしまう。
「具合でも悪いのか?」
はっと気がつくと、既に駅舎へと到着して自動車から降りるところだった。今の質問は勇からだと気づいて、幸恵は緊張しながら答えた。
「い、いえ!大丈夫です」
「自動車は乗り心地が悪かったな。まぁ、汽車は多少マシだろう」
「はぁ……」
そうだ、この人は心を読まないんだ、と思い出してほっとする。一条家の人間として生活していると普通の人が『力』を使えないことを忘れそうになる。それどころか、この人は気遣って声をかけてくれたにも関わらず、心を読まれていないか咄嗟に警戒してしまった。
駅員の元へ向かう勇の後ろ姿を眺めながら自己嫌悪に陥っていた幸恵は、足早に通り過ぎようとした人と思いきりぶつかってよろけた。
「きゃっ……」
「わっ!?ご、御免なさい!」
弾みで落ちたハンカチをさっと拾い上げて差し出したのは、幸恵と歳が変わらないほどの少女だった。
「怪我は無い?あんまり汚れてないといいけど……」
「あ、いえ、大丈夫です」
ハンカチを受け取り、こちらこそと言いかけた幸恵の声を、汽笛の音がかき消した。同時に乗客達が動き出す。
気がついた時には、少女は姿を消していた。
軍人達に連れられて汽車へと乗り込みながら、幸恵は先程の少女の姿を思い出す。彼女は一人でこの汽車に乗っているのだろうか。溌剌とした様子は希望に満ち溢れているように見えた。
私とは大違いだ。
「いいなぁ……」
思わず口をついて出た羨望の言葉に、勇が振り返った気がした。それでも羨む気持ちは止まらない。
いいなぁ。私は何処ともしれない実験施設へ行くと言うのに。私には未来も何も無いのに。みんな、みんな、楽しそう。
両手を固く握りしめて、幸恵は呟く。
「いいなぁ。私も、本当はあんな風になりたかった。あんな風に、自由に生きたかった……」
ざわざわと空気が揺らいだことに気づく者はいない。
しかし、積もり積もった幸恵の『力』は確実にその場を、駅舎そのものを蝕んでいく。
羨ましい。
そして、世界が歪んだ。
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