Dear my love, John

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 「僕はまだ君の幻影を追いかけているよ」  マタイが寂しげに目を伏せて笑うその人を見たのは、魔法の国の谷底の町にある墓地だった。その日はマタイの兄のジョンの命日だったが、ジョンの友人もまた既に亡くなっていて、本来マタイ以外に彼の墓を訪ねる者はないはずだった。けれど、その人はジョンの墓の前にいた。  その人は30歳前後の男性に見えたが、ジョンの友人であれば既に40歳は超えているはずだ。マタイは兄と彼にどのような繋がりがあったのか、生前あまり深く話さなかった兄について知りたい気持ちもあり、静かに彼に声をかけた。  「こんにちは」  「!……あー、こんにちは」  彼はマタイに声をかけられるとまず驚き、それから少しバツが悪そうに下手くそな笑みを浮かべた。マタイは彼を知らなかった、否、気が付かなかったが、彼はマタイを知っていた。例年はマタイが墓参りに訪れる時間を避けていたが、この日はマタイの予定がズレ込んでいた。  「私はマタイと言います。一応、そこに眠るジョンの弟です。あなたは?」  「……君に会うならこの姿でない方がよかったな」  「え?」  マタイが名乗り男にも促すと、彼は困ったように眉を寄せて呟いた。意味が分からずマタイが怪訝そうに彼を見る。彼は諦めたように小さく溜め息を吐き、パチンと指を鳴らした。その直後、彼の髪は茶髪から銀髪に、瞳は茶色から青色に、変化の術を解いて元の姿に戻る。その姿はマタイのよく知るものだった。  「ラグス……!?」  「……久しいね、マタイ」  マタイは驚きに目を見開き後退った。目の前にいるラグスという男は、ジョンの特別な友人でもありマタイにとって数少ない尊敬できる先輩でもあった。だがジョンが死ぬよりももっと前に行方不明になったとマタイは聞いていた。そのラグスがジョンの墓参りに訪れるほど元気に生きているとは思ってもみなかったのだ。  この再会は互いに想定外だったが、マタイが墓参りを充分に済ませるのを待ち、その間にラグスは再び髪と目を茶色にして、ふたりはラグスの暮らす店舗兼住宅へと移動した。  ラグスの経営する店舗はハーブの店で、ハーブそのものからハーブティー、更にハーブを使った石鹸や美容品まで、ハーブに関する商品を幅広く取り扱っている。ログハウス調の店舗の入り口には『ハーブの店・ヨハネ』と書かれた木製の看板が掲げられており、マタイは僅かに目を見開いた。  扉を開けて店内に足を踏み入れると心地好いハーブの香りに包まれ、マタイはそれだけでも幾分か癒やされる心地がした。店舗スペースの奥、扉の先にある階段を上り、ラグスはマタイをリビングルームに案内した。  「夢を叶えたんですね」  促されるままソファーに身を沈めたマタイが、ハーブティーを用意するラグスの背中に声をかけた。ラグスはハーブの店を持つことを夢として語っていた頃を懐かしんで頬を緩ませる。  「覚えてたんだ」  「あなたのことを尊敬していましたから」  「ふふ、光栄だよ」  マタイは先程上ってきた階段の方へ目を向け、一度唇を結んでから再び口を開く。  「……お店の名前、ヨハネと言うんですね」  「うん……」  ヨハネはマタイの兄、ジョンのラテン語読みだ。夢だったハーブの店の名前に掲げるほど、ラグスにとってもまたジョンが特別だったのかと、マタイは少し意外に感じていた。暫しの沈黙が流れる。ヤカンの中で水がお湯へ変わっていく音だけがしていた。次第にぼこぼこと沸騰する音がしてくる。  ラグスがポットに湯を注ぐ音を聞きながら、マタイは湧き上がる怒りを抑えるように手を握り込んでテーブルを見つめた。  「あなたが行方不明だと聞いた時、僕は……もう二度と会えないのだろうと思いました」  「そういう時代だったね」  怒りを抑えるためにマタイの声は低く震えたが、ラグスはそれに気が付いた上で触れずに頷いた。ジョンが亡くなった頃、この国は大量虐殺も厭わない新興宗教団体により紛争状態だった。ジョンはこの国を守るために戦い、命を落とした。  ハーブティーをテーブルに運びマタイの対面へと静かに腰を下ろし、ラグスは再び指を鳴らしてマタイのよく知る元の姿に戻る。その音を合図にしたかのように、マタイの心が決壊し声を荒らげた。  「あなたが!優れた治癒術師のあなたがいれば!ジョンは死ななかったかも知れないのに!」  こんなに元気に生きているのならばあの時に兄の傍にいてくれれば、とマタイが涙を零しながら訴えた。わかっている。こんなのは八つ当たりだ。マタイとて様々なことを理由にして共に戦わなかったうちのひとりだし、当時は兄弟仲もあまり良くなかった。ラグスを責める資格はない。そもそも、この怒りはラグスに対するものですらないと、マタイは自分でもわかっていた。  「そうかも知れないね」  「っ……!」  しかしラグスは理不尽な怒りをぶつけられても静かに目を伏せて微笑んだ。マタイは人前だというのにぼろぼろと大粒の涙を零した。ラグスのこの包み込むような優しさが好きだった。誰よりも優れた能力を持ちながら、ひとつも傲らずいつも一步引いたところで微笑む人だった。それを思い出したマタイは、八つ当たりした恥ずかしさや申し訳無さでまた泣いた。  「でも少し驚いたな。君が僕に怒りをぶつけるほどジョンを思っていたなんて」  「う……」  嫌味のようにも聞こえるが、ラグスに限っては本気でただ驚いているだけだと、マタイはよく知っている。それがまた余計に心に刺さるのを感じながら、マタイはハンカチで涙を拭いてハーブティーをひと口飲む。ほっ、と安堵にも似た息を吐いた。  「わかっています。僕が今更、こんな怒りをぶつけるなんて虫が良すぎる。あの頃は自分のことで精いっぱいで、ジョンが死んでもあまりショックを受けないほど関係が希薄でした。……でも何故でしょうね、今になってジョンのことを知りたくなったんです。おかしいですよね……今更なにがどうなるわけでもないのに……」  自嘲の表情でハーブティーを見つめながら語るマタイに、ラグスは目を細めてゆっくりティーカップを口元に運んだ。  「今更でもいいと思うよ。ジョンも喜ぶんじゃないかな」  「……気持ち悪がるの間違いでは?」  「ははっ!」  ジョンとマタイはお世辞にも仲がいいとは言えなかった。今更知ろうとするなど、死後の世界から見えていたとしたらジョンは吐く真似でもしていることだろう。そう考えるマタイが眉を寄せれば、ラグスは大袈裟に気持ち悪がるジョンを想像し大口を開けて笑った。それがかつての兄の笑い方にそっくりで、マタイは小さく息を呑んだ。  「……僕も、兄の幻影を追っているのかも知れませんね」  「え?」  ぽそりと呟いたマタイの言葉に首を傾げたラグスは、墓地で呟いた自分の言葉を思い出して小さくはにかんだ。  「聞いてたんだ」  「聞こえただけです」  マタイは決して盗み聞きをするつもりだったわけではないという主張を込めた。ラグスはわかっているとばかりに頷いて口を開く。  「ジョンと行った店に誰か他の人と行った時」  「はい?」  「アイスクリームを食べる人を見た時、大口開けて笑う人を見た時、鶏の丸焼きを見かけた時」  急な語りに目を瞬くマタイを置き去りにして、ラグスは目を伏せティーカップを見つめたまま言葉を紡いだ。  「それに……こうしてハーブティーを飲んでいる時も。いつもジョンを思い出すよ。……よく見ると全然違うのに、似ている人を意味もなく目で追ってしまうし、たまに同じ方向へ歩いてしまうこともある」  「ラグス……」  「この店はよくジョンと来たな、とか。ジョンは少しでも暑いとすぐアイスクリームを買っていたな、とか。ジョンもあんなふうに大口開けて笑っていたな、とか。ジョンは鶏の丸焼きが好物だったな、とか。……ジョンともよく、ハーブティーを飲みながら話したな、とかね」  並べ立てるうちに次第にラグスの目は潤み、声は震え、ぽたりと大粒の涙が零れ落ちた。マタイは目を見開いた。ラグスも泣くのかと、失礼ながらも驚きが大きかった。ラグスは慣れた様子で自分の涙を拭いて笑う。  「ごめんね、気にしないで。もう何年も経つのにいつもこうなんだ」  「……いつも……ですか」  マタイは息を呑んだ。今更ジョンを知ろうとして今更過去の自分への自己満足な怒りで涙する自分とは違う。ラグスはずっとジョンを愛し続けている。マタイはジョンが鶏肉やアイスクリームが好きなことさえ知らなかった。途端に己が恥ずかしくなりマタイは俯いた。  「本当はこの店、ハーブティーを飲めるカウンターも設けるつもりだったんだけど……僕の涙腺がこうだから、それは断念したんだ。店主が急に泣き出したらお客さんはビックリだからね」  かつてかわいがっていた後輩の前で泣いてしまった気恥ずかしさに薄く頬を染めながら、ラグスはへらりと笑ってみせた。精いっぱい明るく笑ったつもりだったが、マタイは黙り込んでしまった。ラグスは所在なさげにティーカップの縁をなぞる。  「……ジョンはいつもあなたに迷惑ばかりかけていたのに、あなたにとってはそんなにも特別なのですね」  暫しの沈黙の後、マタイはラグスを見られずに俯いたまま口を開いた。ラグスはきょとんとして目を瞬く。それから穏やかな笑みを浮かべた。  「そう見えていたんだね。そうだな……確かにジョンは女遊びも悪戯も大好きで、その尻拭いはほとんど僕だった。けれど、僕はジョンに救われていたんだよ」  「救われた?ラグスが、ジョンに?……逆ではなく?」  生前不仲だった実兄のこととは言え故人に対して何とも失礼な反応だが、マタイだけではなく同じ期間に同じ学校にいた人々ならばそのほとんどが同じ反応をするだろう。それほどジョンはやんちゃだったし、ラグスはそれに振り回されていた。  ラグスは学生時代を思い出して愛おしげに目を細める。  「僕はね、人にバレてはいけない秘密を持っていたんだ。そのせいで最初はあまり積極的に人に関われなくてね」  「えっ、でも……」  ラグスの告白にマタイは目を瞬いた。マタイにとっては、ラグスは社交的で誰にでも分け隔てなく穏やかで、しかし皮肉や嫌味には笑顔で躱しながら反撃する、そんな理想の先輩だった。マタイが建前で何度突き放しても、本音を見破って話しかけてくれる人だった。だからとてもじゃないが信じられず、じっとラグスを見つめた。  「マタイが入学してくるまでには、ジョンの強引さに引きずられて色んな人と話すようになっていたからね。秘密を抱えたままでもそれなりの付き合いはできるし、『そもそも人は誰しも何かしら秘密を抱えているものだ』と教えてくれたのもジョンなんだよ」  「……ジョンが?」  マタイの記憶の中のジョンはいつもこちらの悩みなどお構いなしに笑っていて、両親のこともマタイのことも見下しているようで、誰かを慰める姿なんて想像も難しいくらいだった。けれどラグスは不要な嘘は言わないし――否、そうではない。マタイは首を振った。あの頃の己から見えていたジョンは、ジョンという人間のほんの一部、それも心を閉ざした相手に見せていた部分でしかないのだと、今のマタイにはわかっていた。  「ジョンは……本当はずっと優しかったんですね。今思えば……先に突き放したのは両親と僕でした」  もっと早くこの事実に気がついていたら。もっと早く。ジョンが生きているうちに和解できていれば。マタイは下唇を噛む。  「ジョンはたとえ生前に君と和解していても戦いに身を投じただろう」  ラグスの言葉に弾かれるようにマタイは顔を上げた。相変わらず心を読んでいるかのように言葉を紡ぐのだな、と眉を下げる。  「確かに君や僕が一緒に戦っていれば死ななかったかも知れない。でもそれはジョンの望みに反するんだよ」  「え?」  「教えてあげよう。ジョンは僕が死ぬまで黙っていろと言っていたけれど、僕はそれに頷いてないからね」  確約してないから大丈夫、とラグスがウインクした。そういえば学生時代に廊下で見かけたジョンはよくラグスにウインクをしていた。マタイはまた、ラグスに兄の幻影を見る。  「僕は一度だけ『マタイと仲違いしたままでいいのか』とジョンに聞いたことがある。その時ジョンはね、『仲良くなってアイツまで戦うって言い出すくらいなら嫌われてる方がいい。アイツは命懸けの戦いなんて知らないままでいいだろ』って言ったんだ」  「っ……」  ラグスは暗くなりすぎないように下手くそなジョンの真似をしながら語ったつもりだったが、ラグスのしたジョンの真似はあまりにも似ていて、マタイは心臓が痛くなった。  「僕に名前と見た目を変えて行方不明になれと言ったのもジョンなんだよ。戦いに参加していなくともジョンと近い存在というだけで狙われるかも知れないからと。僕は目をつけられないようにする必要があったからジョンの勧めに乗って姿をくらましたけれど……マタイにとってはジョンが生きてくれていた方が良かったろうね、ごめんね」  話しながらマタイの隣へと移動したラグスが謝りながらマタイを抱きしめた。マタイは幼子のように泣きながら必死に首を横に振る。  「ちがっ、ごめんなさい、わかってるの。わかってるんです、誰も悪くなくて、たらればなんて意味なくて……ジョンが優しかったのも知ってて、ホントは知ってて……だって、ちっちゃい時は仲良しで、優しくて、だからわかってて、でもっ!……でも、嫌いだった時期の記憶で塗り固めて、そうしないと……そうじゃないと、つらくて……ごめんなさい、ごめんなさい」  泣きじゃくるマタイを抱きしめながら、ぽんぽんとラグスは優しくその背中を叩く。この兄弟は生まれる時代さえ違えば仲良くあれただろう。腕の中で繰り返される「ごめんなさい」が天に届いて、いつかマタイが天に行った時にはジョンと抱きしめ合えるといい。そう願いながらラグスはそっと目を閉じた。  ――それから数年後。  マタイの姿はラグスの店にあった。あの日、泣きじゃくりながら長年複雑に絡み合ってしまっていた心境を吐露したマタイは、そのひと月後にエリート街道を捨ててラグスの店に雇われに来たのだ。「思い切りの良さは兄弟揃ってなんだね」とラグスは笑って受け入れた。  学生時代のマタイはいつも俯きがちで悩みが尽きず苦しそうだったが、ラグスの店で働くマタイは徐々に営業スマイル以外でも明るく笑うようになっていた。今日もくすくすと楽しげなマタイの笑い声が聞こえる。  店の名前につられて客からヨハネと呼ばれたラグスが偽名で名前を訂正するのをスルーされるいつもの光景を笑いながら、マタイは早めの店じまいの準備をする。今日はジョンの命日だ。あれ以来、毎年この日は早めに店を閉めてふたりで墓参りに行くことにしている。  魔法の国の谷底の町。ジョンの墓の前に鶏の丸焼きを供えたマタイが、その光景に思わず吹き出して笑う。  「ふっ、ふふ……お墓に鶏の丸焼きって……」  「変な光景かも知れないけれど、ジョンは喜ぶよ」  「ええ。きっと齧り付いて口の周りを油まみれにするんでしょうね」  「ははっ!想像に容易いね」  マタイはジョンと違って、アイスクリームを食べた時には食べるのが遅くて溶けてしまうのに慌てるし、明るく笑っても歯を見せず上品だし、鶏の丸焼きには齧り付かずに終始ナイフとフォークを使うし、ハーブティーの蒸らし時間をちゃんと守る。その全てがジョンと真逆なのに、髪型も声も全然違うのに、ラグスは時折マタイにジョンの幻影を見る。  ラグスはジョンやマタイとは血の繋がりは一切ないし、基本的には行儀がよく、ジョンよりもマタイの方が似ているものがある。アイスクリームは食べないし、鶏の丸焼きに齧り付きもしない。すぐキレていたジョンと違って多少のことでは怒りもしない。似ているのは笑い方くらいなものなのに、マタイも時折ラグスにジョンの幻影を見る。  互いが互いを通してジョンを見るのは、きっと傍から見たら危ういのだろう。けれど、彼らにとっては人生において必要な過程だった。  「僕はまだ、君の幻影を追いかけているよ」  「僕もまだ、あなたの幻影を追いかけています」  いつか天上で会う時までには想いを昇華しておくから。だからもう少しだけ、今はまだ、あの人を追いかけていたい――。マタイとラグスは互いに見つめ合い、その先に見る幻影に微笑んだ。遥か遠く空の上から、行儀の悪い舌打ちが聞こえた気がした。
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