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 重い足を引きずるように出社して、ノートパソコンを立ち上げる。  会社のパソコンは家のそれとは違い、さすがに性能が良く(社員をこき使うためだろう)、すぐにログイン画面が表示される。  水谷咲子はブラインドタッチで社員IDとパスワードを入力する。  派遣社員にコロナもくそも関係ない。  在宅勤務なんて贅沢品は遠いところにあり、手が届かない。  正社員たちは在宅勤務が認められているので、出社時間がきても、社内の人はまばらだ。  平均的に席の七割は空いている。 「おはよう」 「おはようございます」  咲子は条件反射のように口を開く。  その間に、課長の篠原忠が咲子の後ろを通り、窓際の奥の席に座る。  そして、咲子と同様、死にそうにだるそうな顔をしているのに、キーボードをはじく指先だけ早く動かしている。  この人、微妙に遅刻しないな。人のこと言えないけど。  咲子は発注依頼のメールをチェックしながら、手を止め、隣のデスクに目を向ける。  そろそろ埃溜まりはじめるんじゃない?  咲子の上司である中村真由子は当然のように今日も席にいない。  ま、仕事には支障がないし(やることはわかっているし、山ほどある)、いないほうが視界がすっきりしていて良い。  感染のリスクも減る。いいこと尽くしだ。  咲子は真由子に嫌われている。  咲子は三十八でだいぶ老けてきたが、五歳は若く見えるし(人によっては十ぐらい若く見てくれる)美人だ。  そこそこの大学を出て、働いていたが、職場の同僚と結婚して、仕事は辞めた。二十八のときのことだ。  でも、八年後に離婚した。相手が浮気して、家に帰ってこなくなったからだ。  意地を張って戸籍だけの空虚な関係を続けようかと思っていたら、相手の女に子供ができて、別れざるを得なくなった。  咲子はそこそこの慰謝料をぶんどり、仕方なく社会復帰した。  頭は悪くないし、結婚前にかなりードに働いていたので、仕事は問題なくこなせる。  どころか、派遣としてはオーバースキルだと思うが、正社員には戻れないので仕方がない。  対して真由子は、ブスで仕事ができない。なぜこんなことを? と思うようなミスをしでかす。  正社員が漏れなく派遣社員より仕事できるなんてことは全くないということは、以前に働いていた商社で見て十分に知っているが、真由子の能力は低すぎると思う。  学歴と業務能力は比例しないが、真由子の仕事ぶりは彼女が出たFランと称される大学のレベルとぴったりと相関している。  三十二の真由子は、咲子より若いが、小太りで白髪が多く、安い白髪染めを繰り返しているのか髪は痛みに痛み、結果、軽くひと回りは老けて見える。  真由子は結婚しているが、正直こんな女を嫁にしようという男がほんとにいるのかと首をひねりたくなる(旦那は弱みでも握られ、脅迫でもされたのだろうか?)  意地悪ではなく、客観的に見て、真由子には魅力がない。  性格も悪いからだ。  常に周囲の様子を伺い、誰につけば”勝てる”か、誰とタッグを組めば気に入らない人間を排除できるかを探っている。  そんなことばかりしてるせいか、早くも顔がゆがんできている。  自業自得だ。年をとると、ほんとに本性が顔に出るものだと思う。   二人の属性みたいなものは全く違う。真逆だ。  しかも、本来は負け組の咲子のほうが、傍目には真由子より多くのものを手にしているように見えるのだからタチが悪い。   真由子が複雑な思いを抱き、咲子を嫌うのも仕方ないことなのかもしれない。  理由は思い当たりすぎるほど思い当たる。  だから、真由子との関係は咲子も諦めている。  真由美は篠原とも仲が悪い。  咲子が入社したころは真由子と篠原は仲が良かったのだが、今では真由子は咲子だけではなく、篠原をも避けるように在宅勤務を続けている。  人にめんどくさい資料の作成や電話応対を押し付けているので、真由子の仕事はほとんどないはずだ。  篠原もミスの多い真由子に仕事を振ることを止め、いまでは咲子にばかり仕事を振っている。  その振る舞いが、ますます真由子との溝を生んでいるのだが、篠原はその姿勢を崩さない。  そんな状況をいいのかな? と思った咲子が、篠原に進言すると、 「正社員も派遣も関係ない。できるほうに仕事をふる。ミスられるとトラブル処理の仕事が増える。それだけだ」  篠原はそれだけ言って、議論を止めた。  咲子もすぐに矛を収めた。  冷たくあたられているのに、真由子をこれ以上かばう義理もない。  多少残業が発生したほうが、生活は潤う(派遣のいいところは残業代がフルにつくことだけだ)。  自分でなければ、三人で良好な関係を築けたのではないかと思わないでもなかったが、それも必要のない負い目だと時間が経ってわかった。  隣の部署に働いている派遣社員によると、咲子の前任の派遣は真由子にいじめられて辞めたらしい。  前任者に相談された篠原は、何もしなかったそうだ。 「2対1で追い出したのよ」 「極端じゃない?」  そう聞き返すと、彼女は苦虫を嚙み潰したような嫌な顔をした。  咲子は噂話にのっかりたくなくて、そんな言葉を口にしたが、彼女の言ったことには同意している。  もともと派遣と正社員でチーム分けがされているのに、助け船を出さないとなると、応援しているのと変わらない。  しかし、こんなことをわざわざ話に来てくれる派遣仲間にも、咲子は友情を感じ取ることができない。  彼女も結局、誰かとつるんで誰かと対抗したり、誰かの悪口を言ったり、タッグを組みたいだけなのだ。  派遣という同じ属性を持っていたら、その相手は誰でもいいと、本人もわかっている。  そんな対象になるなんて、咲子のなけなしのプライドが許さない。  こんなふうに、小さなことにいらだち、それに捕らわれると足元をすくわれるとわかっているので、咲子は淡々と派遣社員としての日々を過ごしている。
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