37人が本棚に入れています
本棚に追加
「うち、離婚する前、父親の暴力がけっこうひどくて」
ふいに思いだすように、彼女がそうつぶやいた。
「今思いだしても、ちょっと震えが来るくらい。やっと離れられた後も、色んなことがうまくいかなくなっちゃって……」
僕は何も言わなかった。ここで安易な相槌を打つことなんてできなかった。
風が彼女の髪をさらう。花火の爆ぜる音がする。
「それで、クラスの子とも話せなくなっちゃったの。どう教室でふるまってたか、どんどん分からなくなっちゃって。登校しようと思うたびに吐き気がして、実際に吐いた。受験勉強もできなかった。でも、何もしないって相当キツいんだなって分かった。フリースクールも行けなくて、でも家にもいたくなくて。それでずっと図書館にいたの」
退屈だよね、こんな話。
彼女は首をかしげるような仕草で僕に笑いかける。
そんなことないよ、と僕は言う。むしろ彼女がこんなに話してくれたのが嬉しかった。誰でもちょっとした拍子で動けなくなるときはある。僕たちを取り囲む「世間」が求める理想の姿があって、たまたま彼女はそこから少し外れたに過ぎないのだ。十代なんて体は成長していても何もできない。ごく一部の限られた世界でひとたび居場所を失ってしまえば、逃げ場を探すのは容易ではない。
「僕も、少し学校に行けなくなる時期があったよ」
もう思いだしたくもない過去。
あのときそこから抜けだせたのは、僕の味方になってくれた両親のおかげなんだろう。
そういう安全パイがない辛さは想像したくなかった。
「だから、なんとなく放っておけなかったのかもしれない」
「カケルくんは優しいね」
そう言った彼女の表情がぞっとするほどさみし気で、僕は目を逸らせなくなる。その目の奥に宿った暗い光を見た瞬間、僕は彼女がいつか死ぬつもりだったと分かった。僕が彼女を救えたなんて、そんなことは思わない。そんなのうぬぼれも甚だしい。ただ、今彼女がここにいてくれるのは、いくえにも積み重なった偶然のおかげだと分かっていた。
「次は一緒に何をしたい?」
あんなにたくさんあった花火は瞬く間になくなって、僕は線香花火に火をともしながらそう聞いた。彼女の気持ちを現実に留めていたいと願うように。
「しばらくは勉強しなくちゃね」
線香花火はすぐ爆ぜて、懐かしいにおいが鼻をかすめた。小さな火の玉が地に落ちる。命が燃えているような、そんな光のように見えた。
最初のコメントを投稿しよう!