37人が本棚に入れています
本棚に追加
◆
『夏休みの終わりに、どこか遠くへ行きたいな』
彼女は僕にそう言った。
どこか遠く、という言葉の曖昧さがなんか彼女らしかった。気づけば夏休みも、あと半月に迫っている。急かされるようにバイトを始めた。自転車でだいたい家から三十分くらいのチェーンのファミリーレストラン。もっと他に良さそうな場所があったかもしれないけど、遠ければ遠いほど顔なじみに会わないような気がしたから。仕事自体は簡単だ。入ってきた客に水とおしぼりを出して、注文をとって調理場に伝える。会計をして片づける。たったこれだけのことなのに、慣れない場所にいるせいか初めはずいぶんくたびれた。でも、学校でも家でもない場所で店員になるのは悪くない。身長は高い方だから、十八とごまかせたのもよかった。入るのは昼のうちだけだ。ちょうどランチの時間帯。その時間なら親にもバレないだろうと踏んでいた。
「翔兄、もしかして彼女できた?」
リビングで聖に聞かれたとき、あやうく牛乳を吹きかけた。思わず言葉が荒くなる。
「できてねーよ」
聖はふうん? という目を寄こしてくる。そう否定するしかない事実が少し歯がゆかった。まだそういう関係になれる気はしなかった。海を見つめていた横顔をふいに思いだす。彼女の傷つきやすさや、抱えた痛みのことなんかを。
――通信制の高校に入りたいと思ってるの。
そう告げられたときのことも。彼女はようやく一歩踏みだそうとしているのだ。だから、まだ今すぐに心を乱したくはなかった。
『じゃあ、電車でどこか行く?』
問いかけられた台詞に僕はそう応えていた。行き先の分からない「どこか」という言葉が、今は魅力的だった。どこにたどり着くかも知れない目的地のない旅もきっと面白いだろう。でも、時間は有限だから、その日までに行く場所を決めておこうと胸に刻む。
すぐに『うん』という返事がくる。
『それまでは図書館で勉強する』という吹きだしが下につく。
「今までひとりだったから、誰かと一緒にいられるだけで心強い」と彼女は話してくれた。不安定に揺れる心を支える理由になれているなら、それだけで今は嬉しかった。
最初のコメントを投稿しよう!