幸福への切符

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一つ電車を見送り、あくびの来ないうちに、次の電車に乗ろうかとたくらんでいたのでした。眠いというではありませんが、あくびばかり、さっきから出ている。さぞや間抜けな顔をしているだろうと辺りを憚る気持は、それでもなかったのです。連れなどおらず、一つ電車が来ようが、二つ目の電車を待っていようが、気兼ねする必要はないのでした。  そのうち、「ハルコさん」と間近の空気を丸ごと押しのけるような声がしたので、「はい」とこたえてしまいました。呼ばれた「ハルコさん」がわたしのことかどうかわかりませんが、わたしが「春子さん」という名前を持っているのは確かなので、そうしたまでのことなのです。「はい」とこたえて振り向くと、そこには、しかし誰もいない。  あらあらとヒト呼吸してから、窓を開けて空気の入れ替えをしたいような気分になるのでしたが、それはヘンな話で、なぜなら、わたしは一つ電車を見送った駅のホームに突っ立っているのであり、そして唐突にも「ハルコさん」と呼ばれた。自室にいるわけでもないのだから、窓などない。だから、その窓を開けての空気の入れ替えなどできない。しかし、わたしの目のまえには、もう窓があった、あるのでした。あら、わたしの部屋とおんなじ窓があって、あれあれと手を伸ばして、あっと訝しむ間もなく、わたしは、窓開けをやってしまい、そうすると、「よくやってくれましたね、ハルコさん」と感謝の声が聞こえたのでした。  次の電車がやって来ます。次から次、乗客が降りてきてたいへんですが、わたしは苦労なく、乗車客となりました。ずいぶんとヒトが降りたはずなのに、車内は呆れるほど混雑しています。座れる席はなく、わたしはつり革を片手で握るのがやっとでした。すると、また声が聞こえます。「ハルコさん、ちょっと息苦しいのです。また窓を開けて、空気の入れ替えを行なってくださいませんか」  お願いを聞いて差し上げたいのはやまやまでしたが、何しろわたしは、走る電車の中にいるのです。いや、走っていなくたって、電車の窓なんて簡単に開けられるものでもないでしょう。「でも、やれますよね。ハルコさんなら」また声が聞こえて、ハッとするわたしの目のまえには、またわたしの部屋とおんなじ窓があります。ハイとしおらしく応えて、わたしは窓を開けるました。わたしの動作を、誰も不思議がるでもないのでしょうか、それとも元から見えてもいないのでしょうか、周囲の乗客達はいかほどの反応も示しはしない様子です。  その時、電車が急に揺れて、隣りのつり革の中年女性がよろける風で、開けたばかりの窓の枠にぶつかりそうな感じとなったので、危ないッと思わず彼女の身を護るようなしぐさをわたしはしてしまうのでしたが、ありがとうございますと感謝されるのだって何だか恥ずかしい。「ハルコさんは、すばらしいですね。電車の窓をこうも易々と開けて、そのうえ、隣りのよろめく女性から感謝までされて」今また聞こえる声に、それほどのこともないです。自然に手が動いていました、とわたしはこたえるのがやっとでした。  住まいに近い駅で、わたしは電車を降ります。付いてこられるのかな、とハルコさんと呼び掛けた声の主を警戒しながら期待しているようなあいまいな気持を抱えながら部屋まで歩きます。途中、コンビニに立ち寄り、ノンアルのレモンチューハイとおにぎり弁当、出たばかりのOL向けの雑誌を買う頃には、声の主のことなど忘れていました。そのつもりでした。  わたしは学校を出て、十年以上会社勤めを続けている身の上でした。大きくもない商事会社の事務担当で不当な難儀に見舞われることもありませんが、やりがいのある仕事を任されているという満たされた気持もない。でも、わたしは、自分の日常に格別の不満など抱いてはいないつもりでした。そこには、あきらめもむろんあるのですけれど、まあこんなものでしょうと要領よく日々を過ごしているようなところもある。  持って生まれた性格なのか、友達が少なくても寂しくないですし、今のところ健康にも恵まれています。 そんなわたしに、突然、正体不明の声が掛けられてきたわけですが、驚くほど動転などもしていない自分を、わたしは不思議に思うでもありませんでした。まあ、ジンセイとやらには、こうしたことも時に起こる、起こり得るのでしょうというそんな気構え。  と、また声の主が現れます。といっても、むろん姿かたちはわからないままですが、「さあ、窓を開けてください」とお願いされるのでわたしはご期待に応えました。 「私は今窮屈な部屋の中にいます、あなたのちからで窓を開けてもらえれば、ジンセイが楽しくなります」と更に乞われるので、わたしは自室の窓を開けました。それでけっこうです、ありがとうと満足げな声が返ってきます。 その明くる日にも、「駅前のスーパーのタイムセールで、バカみたいにお安いトンカツ弁当が売られていますので、買ってきてください、」と願い事をされ、わたしは言うとおりにしました。そして、そのつど、「これはほんのお礼です」と、〈幸福への切符〉との白地に金色のレタリング文字が映える御札みたいなものが、手のひらに載せられる。わたしはそれをブラウスの胸ポケットに律儀にもしまい込みました。  お頼まれ事は次々と到来しました。見知らぬおばあさんの病院見舞いをお頼みします、とか市内の美術館で開催されている洋画展に行きたいが、自分自身は行けないので、代わりに行ってください、とか――わたしは次々引き受けます。次々と言っても、日曜日ごとのお願いなので、引き受けやすいのでした。  そのたび、〈幸福への切符〉は渡され、わたしはそのつど、その御札みたいなものをブラウスの胸ポケットにしまい込みます。あらあらと〈幸福への切符〉は薄っぺらいもののさすがにこれだけ数が増えると、ポケットはドンドンと膨らんで、見た目がよろしくない様子になっていきました。 「ごめんなさいね、あなたにイヤな思いをさせていますね」 「そんなことはありません。イヤなら、お断りしています」 「そうですか。ありがとう。これはおまけです」  そんなぐあい、何のお願い事もされていないのに、〈幸福への切符〉がまた1枚、ブラウスの胸ポケットに入れられる、そんなこともありました。 ポケットの膨らみが増すだけ増すうち、幸福って何ですか、とわたしは問いかけたくなりましたが、黙っていると、わたしの問いを知っているかのように、そのうち判りますよ、と声の主は言ったのです。  それから、しばらく音沙汰がありませんでした。  わたしは、部屋と会社を往復するだけの日日を送ります。 「しばらくです」  フタ月が過ぎる頃、帰りの電車の中で、久しぶりの声が聞こえました。 「また、お願い事があってやってきました」 「また、窓を開けなさい、というのですか?」  わたしは、ややつっけんどんな言い方をしました。何だか知らないけれど、ずいぶんと訪れもしないまま、こうして突然気まぐれにもやってきて、お願い事をしようというその声に反撥を感じていたのでしょう。 「窓を開ける。まあ、それもいいけれど、今日のお願いはそんなことではありません」  声の主は、わたしの物腰などものともせず、さあ次の駅で降りるのですよと静かに言いました。 やはり、前とおなじく、声の主の姿かたちなど見えるわけもないのですが、私は肩を抱かれた気が如実にして、そうすると、もう何も逆らえないのだとそんな気持にさせられました。  もう電車を降りて、駅前のロータリーから六股にも分かれる道の一番右端を歩いていきます。 「何処へ行くのですか」 「そのうち判ります」  断定的な口調に圧されるまま、わたしは歩きます。 「お腹など、空いていませんか」 「だいじょうぶです」  言葉を交わして、黙る。黙って歩いていればいいのだとわたしは悟らされるような気持です。  そのうち、おおきな建物が見えてきました。 「あそこに行くのですか」 「そうです、あちらに行くのです」  また言葉を交わして、また黙る。  見えてきた建物がドンドン近くなり、ああ、それは病院なのだと判ります。 ○○総合病院――「さあ、入りましょう」と背中を押されたわたしは、はやばや、がらんとした長い長い廊下を歩いています。 「あちらのナース・ステーションから右に曲がってしばらく行くと、新生児室です。一人の赤ちゃんを攫ってきてもらいます」  静々とした口調ですが、何を言っているのかとわたしは思わず立ち止まりました。 「人さらいをしろというのですか」 「違います」 「でも、赤ちゃんを攫うのでしょう」  わすがにわたしは気色ばんでいました。今まで次々とお願い事をされ、わたしはそれに応えてきたつもりですが、今度ばかりは事情が違う。それはそうでしょう。赤ちゃんを攫う、なんて。 「ごめんなさい」すると、謝りの声が聞こえました。 「言い方がまずかったでしょうか。そうですね、攫うなんて、物々しいにもほどがあるというところかもしれません。でも、私はそう言わずにいられないのです」 「どうしてですか」 「どうして――そうです、攫っていただく赤ちゃんは、元から攫われたものだからです。攫われたものを取り返す。また攫って元に戻す。だから、そんな言い方をしてしまいました」  わたしは、ハッとして、問いなおしました。 「じゃあ、その赤ちゃんというのは」 「お気づきですね。そうです、わたしの赤ちゃん、わたしが生んだわたしの赤ちゃん、わたしの子供なのです」 「そ、そんな……」  驚くわたしに、声の主は、語り掛けてきました。 ……半年前、いえ、1年前、いえいえ、どれほど時を遡ることになるのでしょうか。 突然の恋に落ちた私は、子供を身籠り、こんな自分にも明るい陽が射してきた、と気持をうきうきとさせるばかりでしたが、幸福な時間は暫しのこと。おまえのごとき、確かな姿かたちを持していないようなものが、子供を育てられるわけもない、と何処やらからか聞こえてきたかと思うと、あらあら、今しがた乳を含ませていた赤ちゃんの姿は、もう、ない。そうなのです、跡形もなくありませんでした。人さらい! どれほど声を枯らして叫んでも、ただ風が吹き、ただ雨が降る。月の光さえない闇夜を漂うばかりのような私は確かに、確かな姿かたちというものを持ってもいませんが、それがどうしたのだと気持を強くして、攫われたからには攫って取り戻そうと心に決めました。しかし、確かな姿かたちを持していない私に、いかほどのことが出来るでしょう。そうなのです、だから、こうして、誰かにお願いするしかない…… 「その代行者、それがわたしというわけなのですね」 「お願いしたいものです、今回も」 「出来ますでしょうか」 「これが最後のお願いなのです」  わたしは、長い長い廊下を歩いています。もうナースステーションを曲がりました。 曲がった途端、わたしは看護師さんとなっていました。紛れもなしの白衣、ナースキャップもちゃんと頭に載せています。しかし、わたしは驚きもしない。そうです、これしきのこと、今さら何よという思いさえ、決行への強い味方となってくれるようでした。 新生児室のドアを開けると誰もしません。いえ、赤ちゃん達だけがいます。何人もいる乳児の中から、一人の赤ちゃんを見つけるのは困難なことではありませんでした。わたしに向かって、微笑みかける、それだけのために呼吸しているようなその赤ちゃんを、わたしは難なく、ヨシヨシと腕に抱え、新生児室を後にしました。 ~~~☆~~~〇~~~☆~~~〇~~~☆~~~〇~~~☆~~~〇~~~ イイコイイコ、ベロベロバー、高い高―い。 急に賑やかになったわたしの部屋に、わたしがいます。 わたしがいるなら、イイコイイコの赤ちゃんもいて、ベロベロバー、高い高―い、何度繰り返しても楽しいばかり、飽きることがありません。 そのうち、お腹が空かせる赤ちゃんに、わたしはお乳をやります。  やがて、スヤスヤと眠る赤ちゃんを見ながら、わたしはつぶやきます。 「また、会えたね。やっと帰って来たのね」 わたしは、白いブラウスの胸ポケットから、何枚もの御札のような紙切れを取り出し眠る赤ちゃんのひたい、ほっぺ、ノドもと、と次々載せていきます。 紙切れには、文字の一つも記されてはいませんが、眠る赤ちゃんはその1文字1文字を読むように、ちいさな口をもぐもぐと動かし、また会えたね、やっと帰って来たのね、とわたしに繰り返させるばかりなのでした。
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