四月に揺蕩う冷たい魚

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白い。白い病室の中。俺は身じろぎするだけで軋む、頼りない椅子に座って彼女を見つめていた。 彼女は目を閉じてベッドに横たわっている。眠っているのか、瞼を閉じているだけなのか、その姿からは判然としないが、苦しげではないため眠っているように思われた。 病室は静かだ。消灯時間が過ぎた事を差し引いても静かすぎる。聞こえるのはエアコンの駆動音と、それに掻き消されそうな彼女の浅い呼吸だけ。たまに思い出したように椅子を軋ませなければ、ここに俺はいないのではないかと錯覚しそうだ。 そんな静寂の中に意識を溶け込ませ、俺は記憶を一つ一つ丁寧につまみ上げ始めた。 ***** 彼女は生まれつき病弱な娘だった。 小学校までは自宅と病院での暮らしを繰り返し、季節の変わり目などに風邪をひけば、必ず肺炎を併発させるほど。同年代の友達はおらず、専ら遊び相手は大人か、五歳の誕生日に親から貰った熊のぬいぐるみという分かりやすく“可哀想な女の子”。 そんな彼女も中学校に上がり、人並みの半分位には体力が付いて登校できるようになった。 しかし、それで精一杯だ。部活に参加はできず、友達と遊ぶ事もできない。登校し、授業が終われば辛そうな表情を浮かべていたのだ。 それでも彼女は皆と同じように学校に通えるのが嬉しいらしく、中学・高校では精勤賞を貰っていた。勿論、常に彼女の隣を歩いていた俺も貰った。彼女自身は、最初に早退して皆勤賞を逃した時には悔しそうであり、俺まで巻き添えにしてしまった事を申し訳なさそうにしていた。 今では、この頃が最も幸せな時だったのだと思う。 高校を卒業し、俺は専門学校へ、彼女は大学へと進んだ。彼女がこれ以上進学する事を俺や彼女の両親は反対したが、結局は彼女自身の意思を尊重した。実際彼女は聡明で、何事も無ければ一廉の事ができた筈だ。 彼女はよく言っていた。 「わたしは誰かを救える人間になりたい」 親や他人の助け無しでは生きられない者だからこそだろうか。彼女はそう言いながら常に勤勉でいた。勉学だけに限らず、常識・一般教養、家事や料理、世界情勢、詩……どんな事に対しても興味を絶やさず、学ぶ姿勢を止めなかった。 その姿勢も祟ったのか、大学へ入学して僅か四ヶ月で彼女は倒れた。過労だった。スケジュール自体は普通ならなんてことのないものしか組んでいなかった彼女は、皆勤賞を逃した時と同じひどく悔しそうな顔に自己嫌悪を滲ませていた。 そして。 ここからの彼女は悲惨なものだった。 ***** 彼女は穏やかな、春の日溜まりのような人だった。今も穏やかではある。しかし、その中にはどこか疲れと諦めが窺われるのだ。 あの頃は。彼女が幸せだった時は、悲観の無い希望に満ちた穏やかさだったのに…… 涙が流れるのを。嗚咽が洩れるのを我慢できなかった。 彼女が変わってしまった事に。彼女がもう長くはない事に、今度は俺の心が折れそうだ。 「…………え?」 手を、握られていた。 俯かせていた顔を上げると、彼女が俺を見つめていた。その顔は俺のよく知る、穏やかさだった。 「泣かないで……。わたしは今、貴方が傍に居てくれるから幸せよ」 俺は何を見てきたのだろうか? 彼女は変わってなどいなかった。 また涙が零れた。 握られた手を握り返す。こちらが不安になるほどの細い指だった。強く握り返せば折れてしまいそうで、両手で優しく包み込むようにした。 冷たい手だった。 「俺は…」 「わたしは貴方に感謝してる」 俺の言葉に自らの言葉を被せる彼女。人の話は必ず最後まで聞いてから自分の口は開く彼女が、これまで一度もした事の無い行動に軽く面喰らう。彼女は気にせず続けた。 「今、ここに居てくれて、ありがとう」 入院してからの日々。 「いつも一緒にいてくれて、ありがとう」 幸せだったあの頃。 「何よりも…ずっと一人だったわたしに声をかけてくれて、ありがとう」 鼻の奥にツンとした感覚がする。頭の芯が痺れた。 いけないと判りつつも、彼女の手を握った手に力が込もる。彼女は痛いだろうに顔をしかめすらせず、ただ優しく俺を見つめる。 ありがとうと言いたいのは俺の方だ。しかし、それは駄目だ。 だから決めた 「結婚しよう」 俺の唐突な言葉に呆気にとられる彼女。場違いにも可愛いと思ってしまった。 「結婚、しよう」 同じ言葉を繰り返す。 結婚なんて嘘だ。 出来るわけない。するつもりもない。 結婚したくないわけではない。彼女を愛していないわけではない。 現実的に考えて不可能なだけ。彼女もそれは理解しているだろう。 それでも、この嘘は必要なのだ。 たとえ、それが優しさから来るものではない哀しい嘘だとしても。 「…………」 「…………」 先程までとは異なる静寂が下りる。この静寂は俺を否定していない。落ち着いた気持ちで待つ事ができた。むしろ終わってほしくないとすら願った。 俺の椅子がギシリと音を鳴らす。 「……ありがとう」 この時の笑顔は一生忘れない。 何故なら、心底嬉しそうで、しかし同じ位に困ったような…… 初めて彼女に声をかけた時と同じ笑顔だったから。  ***** そう。出会ったのも、この病院だった。 忘れていたわけじゃない。毎日一日一日が必死だったから、意識しなかったのだ。 彼と出会ったのは偶然。わたしが入院中、彼のお祖母さんも入院していて、彼らの家族がそのお見舞いに来た時が最初。 わたしはその日、主治医の先生から控えるように言われていた一人での外出―――といっても病室を出て院内を歩き回るだけなのだけど―――をしていた。病室に居ても退屈で、誰にも言わずに無目的にうろうろとする秘密の散歩は、確かにわたしの無聊を慰めてくれた。 でも、わたしの気持ちとは裏腹に、わたしの情けない体はすぐに限界を迎えてしまい疲れから動けなくなってしまった。場所もすごく悪くて、わたしが居る所を通りかかる人が滅多におらず、助けてもらうのにも時間が掛かりそうなのは分かった。 そのまま倒れてしまったりする事は無かったけれど、わたしは心細さに支配されていた。普段訪れることなど無い暗く無機質な廊下が、まるで異界のように思われて「ここに閉じ込められてしまうのではないか」という有り得ない不安がぞわぞわと足元から這い寄る。同時に、そんなわけはないと考えながら、誰かに見つけてもらって病室に帰ったとしても待つのは孤独という絶望感が心を侵す。 自然、涙が両目から溢れてきた。 自宅でも病院でも大人とばかり接してきて、自分の体の弱さ故に幼さに見合わない死生観を一丁前に持っていて、多少は大人びている自覚があっても、所詮は十年も生きていない。自身の置かれた状況に対し、抗う術の無い小さな子供がわたしだった。 どれくらい泣いていただろうか?そう長くはなかった気がする。この後の衝撃が強すぎて記憶が曖昧なのだ。 気付いたら誰かに抱き締められていた。 大人じゃない、わたしと同じ小さな体がすぐそばにある。わたしの背中を撫でる手が温かくて、その時は何よりも心強くて。 驚きで止まった心臓は、一瞬後には早鐘を打っていた。なのに安心しきったわたしは全存在をその小さな体に預けていた。病院の先生にも看護師さんにも、両親にすらここまで自らを委ねた記憶は無いのに、この時のわたしには当然に感じられた。 永遠にしたい程の時間だったけれど、わたしから温もりが離れていく。あ、と小さな声が意図せず漏れてしまった。恥ずかしい。 そんな何もかもが分からなくて困惑しているわたしに、今度は手が差し出されていた。 男の子だった。わたしと同じ位の歳の男の子。 わたしはどうしたらいいか分からなくてひたすらに呆然としていた。少し考えれば答えに至りそうなものだったけれど、その少しが不可能だったのだ。頭の中は真っ白。 「いっしょに、いこう」 黙るだけで動こうとしないわたしに痺れを切らしたのか、男の子はそれだけ言ってわたしの手を取る。 ぶっきらぼうな言葉も声も、繋いだ手も、やっぱり温かかった。 可愛らしい笑顔を返したかったけど、きっと出来なかったんでしょうね。それが残念でならないの。 わたしはこのとき、さいしょでさいごの恋をしました。  ***** あの嘘の結婚を誓い合った四月一日の夜から二日後、彼女は白い病室で息を引き取った。 死に際の彼女の表情はやはり穏やかで幸せそうだった でも。 自分もそんな顔で看取る事が出来ていたかは憶えていない。 (了)
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