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「ありがとうございます」
「そんなに恐縮しないで、なんでもないことだから」
嶺二の言葉は柔らかく、声には温度を感じた。
いつもより綺麗に整えた着物は、祥子が捨てるはずだった着物。それさえ名無しに渡すことを拒んでいたものだ。嶺二直々に誘われて、場に不相応な装いで名無しを連れて行けば、それは祥子の恥になる。しかたなく古着を与えることにした。祥子の着物は派手なものが多いが、彼女にとって一つだけ地味であまり袖を通したことのない着物、白地と青藤地のツートーンの濃い色地から、枝垂れる藤の花が描かれたものだ。左肩から流れる藤の花が咲き誇り大人びた雰囲気が漂う。祥子が着ると顔がぼやけて見えるのに対し、名無しが着ると、小顔の輪郭を浮き彫りにし、さらに凛とした佇まいに拍車をかけて美しさを際立たせた。おそらく、それも祥子を怒らせた原因に違いない。着物と一緒に草履も祥子のお古を譲り受けたが、着物に合わせたものではないのに、縁に赤い線が細く入り、まるで合わせたような一式に見えた。
切れた草履の鼻緒を脱がせて片足立ちでは心許無く、嶺二の肩につかまるように言いおいたことで、名無しはしっかりと嶺二につかまっていた。声をかければ、いつも逃げていく兎のような彼女を、嶺二はやっと捕まえた気がして俄に微笑んだ。
「ーーもう、始まって……」
今時分、祥子とオペラを観ていなければならない嶺二がここにいる。しかも名無しのために鼻緒を直してくれている事実が、酷く名無しを後ろめたくさせた。ーーどう謝っていいのか分からず、口を開いたものの言葉を繋げることに戸惑った。
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