あの日の約束が届いていたのなら

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「お母さんがね、ママ猫と子猫、うちで飼ってもいいって言ってくれたの」  足元にすり寄ってきた母猫と三匹の子猫の頭を撫でながら、香奈は嬉しそうに言った。  1ヶ月ほど前、私と幼馴染の香奈は通っている高校までの通学路の途中にある小さな公園の植え込みで、3匹の子猫を育てる茶トラの野良猫と出合っていた。生まれたばかりの子猫を育てながら餌を探すのは大変なことだろう。見るからに痩せ細りながらも必死に子育てをする姿を見た大の猫好きの私と香奈が、それを見過ごせるはずもなかった。  朝と夕方の2回、登下校の途中で公園に立ち寄っては母猫が子育てに専念できるよう餌を運び続けた。その甲斐あってか子猫達もすくすく育ち、母猫もふっくらとして毛艶も良くなっていた。 「それじゃ、今日連れて帰るの?」  その問いに、香奈はニッと笑って何度も頷いた。 「そのつもり。これからお母さんと待ち合わせしてて、一緒に連れて帰ることになってるの」 「そっか。よかったね、今日から暖かい部屋で安心して眠れるよ」  足元でじゃれつくハチワレとキジトラの子猫二匹を抱えてベンチに座り、太ももの上にそっと乗せた。私の体温が伝わって心地よかったのか、ゴロゴロと喉を鳴らして目を細めている。 「さすがに4匹は面倒見られないから、ママ猫とこっちの黒い子はうちで引き取って、ハチワレちゃんとキジトラちゃんは別の里親さんを探してもらうことにしたんだけど。絵麻は、いいの?」  香奈は念を押すようにそう訊ねた。きっと私の気持ちに気づいていたのだろう。 「絵麻、本当は飼いたいんじゃない?」 「……まぁね」 「おばちゃんには話した?」 「話したよ。お母さんは飼ってもいいって言ってたんだけど――」  傍に置いておきたいと願いながらも、私の心は二の足を踏んでいた。  猫は大好きだ。温かくてふわふわで、やわらかくて、お腹や頭はお日様の匂いがする。自由奔放で天邪鬼で、気分屋なところがなんとも愛らしい。目の前にいる子猫達を家に迎えて過ごす日々を何度も想像したけれど、幸せな未来とは裏腹に心の奥に感じるのは寂しさだった。  私が生まれた時から一緒に育ってきた愛猫のパールが五年前に虹の橋を渡ってから、私はずっとパールの姿を探している。どんなに可愛い子猫に触れても、未だにパールを失った喪失感を埋められずにいる。 新しい家族を迎えたいと願いながらも、心のどこかで「パール以上に素敵な子はいない」という想いが強烈に焼きついて、先へ進むことができないままだった。 「パールちゃんのこと、忘れられない?」 「うん、そうだね。私にとってパールは最高の子だったから」  5年経った今でも昨日のことのように思い出せる。  パールは真っ白な毛が美しい男の子だった。日の光に当たると体がキラキラと真珠みたいに輝いていたから、母がパールと名付けたらしい。 瞳は夕焼けを切り取ったような澄んだ琥珀色に、薄っすらと金色が混じっていた。右手の肉球には小豆色をしたホクロのような模様があって、私が指で撫でると不機嫌そうに目を細めていた。あの顔は今思い出しても笑ってしまうほど不細工だった。  ご飯を食べる時も、勉強する時も、眠る時も。パールはいつも私の傍にいて、いつも同じ景色を見ていた。だから、私が辛い時はパールが黙って寄り添い、パールが辛い時は何となく痛みが伝わってきて私が言葉はわからなくても互いに何を考え、何を伝えようとしていたのか感じ取れていたと今でも思っている。  きっとこの先、パール以上に通じ会える子には二度と出会えない――その想いが棘のように心の奥底に刺さって抜けずにいる。いや、私はそれを抜くつもりがないのだ。 「あっ、お母さん!」  隣に座っていた香奈が声を弾ませて立ち上がった。  公園を取り囲むフェンスの向こうに香奈のお母さんの姿が見えた。私達を見つけるとパァッと弾けるような明るい笑顔でこちらに手を振った。  私は膝に乗せていた二匹の子猫を母猫に返し、地面に置いていた鞄を抱えて立ち上がった。 「それじゃ、先に帰るね。ママ猫と子猫、よろしくね」 「うん、任せて。落ち着いたら家に遊びに来てよね」 「絶対行く。それじゃ、また明日」  香奈のお母さんにも軽く挨拶をし、足早にその場を離れた。  これであの親子は何の心配もなく生きていける。お腹いっぱいになったら日当たりのいい場所で寝転んで昼寝もできる。これから待っている穏やかな未来を思い描いた瞬間、私の心がちくりと痛んで、羨ましさと寂しさがジワリと体の奥から滲み出した。  公園を出て数分行った先にある交差点の横断歩道で立ち止まり、青に変わるまでのほんの僅かな間に、私はふと手を開いて見つめた。  制服の袖口に母猫のもと思われる茶色の毛が付いている。それを指先で撫でながら思い浮かべるのはパールの姿だった。  今でもパールの温かさも、ふわふわの毛も、ちょっとかすれた低い声も覚えている。両親は共働きで、一人っ子の私はいつも遅くまで帰りを待っていた。一日たりとも寂しいと感じなかったのは、いつもパールが傍にいてくれたからだ。  あの子猫達を家族に迎えることができたら、きっと賑やかで笑顔の絶えない日が待っているのかもしれない。ただ、私はきっとその可愛い子達とパールを比べてしまうような気がしてならなかった。  あぁ、パールだったらこんな時、こんな顔をしてくれただろうな――なんて。今ある幸せと、かつてあった幸せを比べてしまう自分の姿が容易に想像できた。 「パール代りはいないんだよね」  そうぽつりと呟いたと同時に、信号は青に変わった。私は溢れ出しそうになる寂しさを押し戻すように、開いた手をぎゅっと握りしめて歩き出した。  パールのことは、今は忘れよう。あの野良猫の親子が暖かくて安全な場所を手に入れたことを喜ぼう。香奈はあの子達にどんな名前をつけてあげるのだろうか。そんなことを考えながら家路を急いだ。  我が家のトレードマークである赤い郵便ポストが目に入り、鞄に手を突っ込んで鍵を探した。  ポケットの奥に入り込んだ鍵を取り出して顔を上げると、玄関先に一人の男の子が立っているのが見えた。  歳は5歳くらいだろうか。肌は雪のように白くて、髪は手触りの良さそうなミルクティー色をしている。横顔でもわかる目鼻立ちのはっきりした顔と長い睫毛が可愛らしい子だった。 「うちに何かご用かな?」  私が声をかけると彼はハッと瞬きをして、素早くこちらを振り仰いだ。私を見つめるまん丸の目は、降り注ぐ夕陽の光を吸い込んで琥珀のように輝いていた。  私をじっと見つめた後、ゆっくりと瞬きを2回して嬉しそうに目を細めてほほ笑んだ。彼の仕草を目にした瞬間、強烈な懐かしさと嬉しさが込み上げてきた。  知っている、私はこの仕草をずっと前から知っている。そんなはずはないと思いながらも、心が感じている直感にも似た感覚に期待は大きく膨らんでいく。 「また、会えたね」  彼はその幼い姿に似合わない、少し掠れた声でそう言った。 「……っ! もしかして、パ――」 「ルイ、何してるの!  私の言葉を遮るように、彼の母親が慌てた様子で駆け寄った。彼に向けて伸ばした私の手は行き場を失って、そっと握りしめながらブレザーのポケットに押し込んだ。 「ごめんなさいね。この子、急に走り出して行っちゃって。何かご迷惑なこと、してませんでしたか?」 「いえ、全然」 「本当にごめんなさいね。ルイ、行きましょ。急に家の前にいたら、お姉さん驚いちゃうでしょ」  手を引かれて遠ざかっていく彼の背中に、私はとっさに口走っていた。 「――パール」  私の声は震えていて、風の音にかき消されそうなほど小さかった。だから彼の耳に届いているはずがない。そう思っていた矢先、彼はまるで私の呼びかけに気づいたように振り返り、ヒラヒラと手を振った。その右手の手の平には小豆色をしたホクロが一つあった。 「あの時の約束、届いていたのかな……」 ―― 今度は猫じゃなくて人間に生まれ変わるんだよ? 今よりも長生きして、私に会いに来てよ。約束だよ。私ならきっと、パールが生まれ変わっても絶対にわかるから。  虹の橋を渡る直前、腕の中で眠るパールの耳元で、私はそう告げた。  絶対に届かない願いだとわかっていても、もしかしたら届くんじゃないかって気がして、祈る思いで伝えた。もしかしたら、パールはそれを覚えていてくれたのかもしれない。 「パール……また、会えたね」  言葉は優しく吹いた風に溶けて消える。  そういば、パールが虹の橋を渡った日も、今日と同じ、暖かくて眩しい夕陽が綺麗な日だったことを思い出した。 了
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