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気づけば、見知らぬところにいた。
そこには何もなく、ただ自分が「在る」のみ。
自分の息遣いさえ聞こえなければ、足で地面を踏みしめる感覚もない。
ただ、自分の目の前に、道が続いているということしかわからない。
なぜ? いつから? 自分はここにいるのだ?
ことばが言葉としての形を崩しながら自分の耳の裏で響く。
どこ?
帰りたい、
どこから来たのだ?
わからない。
何もわからない。
なにも?
思考がばらばらになる。
どこかに帰りたい。
ふいに、ただ一歩、足を、一歩、踏み出した。
とたんに、角ばった心の隅からぼこりと恐怖が頭を擡げた。
恐怖。
何かを恐れる、恐れている。
あちこちに転がっていた思考が、身を寄せ合っていっせいに恐怖を叫んだ。
踏み出した一歩がとてつもない後悔に苛まれる。
小刻みに、先ほどまで影も形もなかった自分の呼吸が震える。
どうすればいい、
どうすれば逃げられる?
答えは「一歩」が知っていた。
「走れ」!
誰だ? 何の声?
自分の声。
そうだ、走れ、逃げ延びろ。
一歩出した足をひくことなく、爆発したように次々に一歩、一歩と進める。
走る。走る。
何もない、道かどうかすらわからない、ただ先に。
ずっと全速力で、あがった息は一定のテンポを保ち、ただ先へ。
そうだ、自分は逃げなければならないのだ。
何者かによって自分はそう「在る」のだ。
なんて恐ろしい所業か、足を止められたらどんなに楽だろうか。
あがった息を調えている間に、恐怖は自分に追いつくだろう。
何が怖い?
さあ、何が怖いのだろう?
その答えを導くより、恐怖が自分の背に手をかける方がはやかろう。
最初の勢いを保ったまま、ずっとずっとずっと走る。
走れば、視界の先に何かが見えた。
何か、それは走っていた。
だが、何かなんて考える暇はない。
自分は振り返らずに、一心に走ってそばを通り抜けた。
壁にぶつかるようなこともなく、するりと横を縫って追い越す。
むこうは自分を見て焦りに表情を歪ませ、足をもつれさせた。これで、むこうよりも自分のほうが恐怖より遠ざかったのだから、焦燥にかられるのもよくわかってしまう。
誰かでも何かでも構わないが、すまない、どうか先に行かせてください。
走る、
走る、
走る、
走る、
走る、
走る、
走って、
ふと。
走れば、視界の先に何かが見えた。
何か、それは走っていた。
今度は心当たりがあった。
先ほど見た影。
なぜ、どうして?
あれもやはり同じように、ずっと必死で走っている。
同じ道を繰り返している。
自分は逃げられないのか?
……だが、それでも、走らねばならない。
それが意思だ、ただ一つの方法だ。
今度もあれを追い越す。
そのとき、後ろでぴたりと足音が止まった。
ああ、なんてことか、「あれ」は自分より遅かった為に、恐怖より逃げられなかったのだ!
しかし、しかしそれでも、止まれはしない。
ただ走るのみ、すまない、
……と唱えながらも、自分はおそらく同じ道を辿ったのであろう「あれ」の未練を断ち切れなかった。
足の動きが鈍る。
ああ、恐怖が自分の背に追いついてくる。
恐ろしいことだ、なんとしても逃げなければ。
走る、
走る、
走る。
そのとき、自分には「終わり」が見えた。
大きな壁が、平たい壁が、無機質に自分の前に立ちはだかっている。
そんな!
越えられない。無理だ。
自分は走った。その壁に触れられるまで。
触れられるまで走り、走って、
どうにもこうにもならず、
歩みを止める。
そうして知る。
自分はついに、恐怖に追いつかれてしまったのだと。
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