赤いマスカット

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   ビップルームには先客がいた。浅黒い肌に角刈り。浮世の美意識から外れた服装。初めて見る顔だ。両脇にキャバ嬢を抱いている。 「待ちくたびれたよ」  男は片言だった。 「ご足労いただき、感謝します」  白崎が鷹揚に頭を下げた。 「お兄さん焦らしすぎね」  男はキャバ嬢の肩から腕を下ろすと、「シークレット」と言って、キャバ嬢二人を追い払った。 「梶山、お前はそこで見張ってろ」  白崎が言い、宗幸は鳥肌が立った。密輸の打ち合わせだ。  白崎は男の隣に座ると、愛想よく微笑み、女給のように男のグラスに酒を注いだ。  打ち合わせは中国語で行われ、ほとんど理解できなかった。かろうじて読み取れたのは、近いうちに、十キロの薬物を乗せた密輸船が、清水港に入港するという……十分すぎる情報だった。  突如、男が顔色を変え、中国語で怒鳴った。白崎は涼しい顔であしらう。 「どうされました?」  黒服がやってきて、宗幸は「なんでもない」と言って追い払った。 「服務員(フフユーエン)!」  背後から男が怒鳴る。 「梶山、スタッフを呼んでこい」  白崎に言われ、宗幸は黒服を呼び戻した。男がフードメニューを大量に注文する。  注文を取りながら、黒服はチラチラと白崎の様子を伺う。会計を気にしているのだろうか。白崎は視線に気づくと小さく頷いた。「大丈夫」と伝えたように見えた。  注文を終えると、男はフン、と鼻を鳴らした。卑屈に口角を上げている。白崎も笑顔だが、目の下の薄い皮膚が引き攣っている。  料理が運ばれてきた。フルーツ盛り合わせ、ピザ、ソーセージ詰め合わせ、おつまみ。テーブルがいっぱいになる。 「さあ、たくさん食べてね。わたし、食べ物粗末にする人、嫌いね」  男が愉快げに言う。 「いただきます」  白崎がピザを口元へ運ぶ。一口、二口、形のいい唇がピザに食らいつく。その姿を、男はニヤニヤと見つめている。 「部下のお兄さん、あなた酒注ぐ」  男に言われ、宗幸はテーブルに近づいた。床に膝をつき、二人のグラスに酒を注ぐ。白崎は料理を流し込むように、ハイペースで酒を飲んでいく。  ボトルが空き、宗幸は追加注文を指示され、部屋を出た。黒服を見つけると、彼の方からやってきた。 「白崎さん、大丈夫ですか?」  宗幸が眉根を寄せると、彼は「もしかして、知らないんですか」と瞬きした。  瞬間、白崎の言動が脳裏を掠め、宗幸は唐突に理解した。黒服に詰め寄り、「あの人は味覚がないのか」と確認する。 「は、はい……まだ、治っていなければ……」  聞き追わないうちに踵を返し、部屋に戻った。白崎は不自然に汗をかきながらピザを食べている。その横で、男は愉快気にピーナッツをつまんでいる。  宗幸はカッと全身が熱くなった。男は、白崎に味覚がないことを知っているのだ。取引内容に不満があるのだろう。全面的に白崎の要求を飲むしかなかった男の、腹いせだ。  白崎の喉を固形物が通過する。ほとんど噛まずに飲み込んでいるのだと、今更気づいた。味覚障害ならば食事は苦行だ。ゴムや消しゴムを食べているのに等しい。白崎は笑顔だが、目が潤んできている。  自分の料理はどうだったか。俺は、白崎に苦痛を与えていたのか。手間をかけたところで、白崎が俺の料理を味わうことはなかったのか。 「梶山」  白崎が空のグラスを掲げ、宗幸は我に返った。急いでテーブルの前に膝をつき、酒を注ぐ。  テーブルにはフルーツの盛り合わせが手付かずで残っている。ピザは最後の一切れだ。白崎はそれを飲み込むと、フルーツの盛り合わせをチラリと見た。気合いを入れるように酒を飲み干す。  自分にできることはないか。彼の負担を減らせないか。お調子者を装って俺が食べてしまおうか。そんなことをして、男は気分を害さないか。これまでの白崎の努力を台無しにしないか。  白崎の喉を、ひときわ大きな塊が通過した。マスカットだ。宗幸はふいに目頭が熱くなった。そうか、この人は血管からしか味わえないのか。覚醒剤しかうまいと思えないのか。  宗幸は男の目を盗んでマスカットをもぎ取り、テーブルの下に隠した。素早く口に放り込む。白崎がギョッとこちらを見た。宗幸はタイミングを見計らい、もう一粒、また一粒と、白崎の負担を減らしたいという一心だけで、マスカットを胃袋に消していった。
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