Long Time No See

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 いよいよやってきた『男子100メートル決勝』。  勝ち上がった八人の選手の名前が呼ばれる。俺は第八レーンで走行することとなった。  歴代チャンピオンが走るのは第九レーン。俺たちは再び隣同士で走ることとなる。 「そして、第九レーン。歴代チャンピオン。サンダー・サイン」  競技場を包み込むライトが消えて真っ暗になる。複数に散りばめられたスポットライトが探るような形で第九レーンのスターティングブロック前へと集中する。全てが一点をさすと何もないところから人型が現れる。  人型は見る見るうちに外面を形成し、一つの個体と化す。  サンダー・サイン。男子100メートルの歴代チャンピオンだ。  瞬足の速さを持つ彼につけられた異名は『走る稲妻』。そのタイムは9.50秒だ。  電子化されたサンダー・サインが登場するや否や会場から大歓声が上がる。俺を含む選手たちの何人かも心の中では歓喜している事だろう。彼は時代的スターなのだ。そんな彼と再び戦えることを誇りに思う。  また会えたな……  俺は心の中で静かに挨拶する。彼には敵意を燃やす強い視線だけを送った。  もちろん電子化された彼が俺に反応することはない。  全員の名前が呼ばれたことで審判の合図に従い、スターティング・ブロックに足をつけ、スタートの用意をする。いつものように超集中で空間の音を消していく。見えるのは自分のレーンのみ。  四年間夢見ていた空間にようやく立つことができた。  今日この瞬間を楽しみに血の滲むような努力をしたのだ。負けるわけにはいかない。  審判の声が聞こえる。いよいよ時は来た。合図で腰を上げる。  発砲音が天に轟く。その瞬間、激しい風に包まれた。    俺の視界に入ったのは、微かに横に見える『電子化された男』。  スタートダッシュすらも他を圧倒する彼はまさにチャンピオンに相応しかった。  だからといって負けるわけにはいかない。まだ追い上げられる距離にいるのだ。  スタジアムを囲う光が俺の行く道を明るく照らし出す。  少し上を見上げれば、闇に包まれた暗い世界が見えるだろう。  だが、俺には見えない。視線は目の前に聳え立つ神々しい背中のみに注がれている。  先ほどまでは盛大に鼓膜に響いた客の歓声も今は全く聞こえない。それだけ自分の為すべきことに集中できているのだろう。聴覚は消え、代わりに触覚が研ぎ澄まされていく。  一定のリズムを刻む呼吸。全身に轟く風の抵抗。地を蹴る足の筋肉のバネのような伸縮。 まるで世界がスローモーションになったかのようにそれら全てがゆっくりとした感覚で脳に伝わってくる。  一緒に走る九人の選手たち。その中で俺の視界に入るのは隣のレーンにいるたった一人のみ。彼との距離は僅差であり、『まるで反対の極のように終始くっつきぱなしであった』。彼の加速に伴い俺もまたトップスピードで加速していく。  見えてくるゴールライン。  地を蹴る強さ、腿の振り幅、腕を振るスピード。それら全てを極限まで上げていく。それでいて、長年意識してきた基本姿勢は呼吸をするように無意識に保てている。  まるで世界が俺の味方をしているかのように重力、風の抵抗を全く感じなくなった。  だからこそ、彼との距離を埋めることができている。しかし、あと一歩足りない。彼を抜くためにはまだ力がいる。  うぉーーーーーーー。  心を燃やすように無言の叫びを上げる。  四年間の血の滲むような努力が走馬灯のように脳裏によみがえる。彼との実力差を知ったあの日から一度たりとも背中を忘れたことがない。  今日ここで彼に勝つためだけに捧げてきた四年間。おそらく次のオリンピックで勝つのは不可能だろう。だからこそ、ここで負けるわけにはいかない。自分の中の闘志を身体に宿し、最後のエネルギーとする。  力強く地を蹴り、前へ前へと意識を注ぐ。  いつの間にか俺の視界に入っていたのは目の前に敷かれた白いゴールラインのみとなっていた。それが現実なのか、集中したことでそこだけ見えているのかはわからない。  そのゴールラインに届かせようと必死に足を前に出す。ゴールを切った瞬間、俺の後ろに続くように隣にいる人物の足が見えた。俺は思わず、その光景にハッとさせられた。  足の回転を徐々に緩ませていく。研ぎ澄まされた感覚は平常に戻り、観客の歓声が再び鼓膜を打つ。俺の後ろにいた彼はそのまま俺を抜いて走り去っていく。  去り際、彼がなんだか俺の方を見たように感じられた。  見えた彼の口元は綻んでいた。まるで自分を打ち破ってくれる存在を待ち望んでいたかのように優しい笑みを浮かべていた。走り去っていく彼はやがて一瞬のうちに消えていく。  俺はその様子を見ながら足を止めた。とどっと疲労が押し寄せたが、そんなことは一ミリも気にならなかった。  喜んでいた彼の姿が信じられず、呆然と立ち尽くし、彼が消えた箇所をずっと見ていた。決して嘘ではない。彼は俺を祝福してくれたんだ。自分を超えた存在として。俺は拳を握り、思わずガッツポーズをした。  そして、決勝が終わりを告げ、アナウンスが聞こえる。 「優勝は、ダニエル・クライン!」  場内に流れるアナウンスに俺は戦慄を覚えた。タイム表を確認すると9.49秒を差す俺の上に 9.47秒と記載された選手の名前が浮かぶ。第一レーンを走っていた選手だ。  一体何が起こっているんだ。俺は理解が追いつかず、戸惑ってしまった。 「Hello, Mr.Shigure」  そんな俺を知ることなく、一人の黒人選手が声をかける。  サイドを刈り上げたショートヘアの男性。俺より背は一回りでかい。  彼は微笑みながら、呆気にとられる俺の表情を覗く。 「I'm glad you finally noticed」  彼はゆっくりと近づいてくる。俺はどうやら大事なことを忘れていたみたいだ。俺が世界チャンピオンを意識して血の滲む努力をしていたのと同じように誰かもまた俺を意識して血の滲む努力をしていたのだと。    そして、その男は俺に向けて手を上げると、嬉しみに浸りながら言葉を漏らした。 「Long Time No See. I’m Daniell Klein」
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