Long Time No See

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 イブニングセッションが始まる一時間前、俺はサブトラックでウォーミングアップを図ることにした。このウォーミングアップは何よりも重要だ。ここでミスをしてしまったら、自分にとって最高のパフォーマンスを出すことができなくなってしまうのだ。  三年間という長い日々をかけて、俺は自分にあったウォーミングアップ方法を模索し続けた。どのトレーニングをどれくらい行うべきか、トレーニング方法を羅列して、トレーニングにおける時間設定を複数決め、さらにトレーニングを行う順番を複数通り決めた。  それらを一週間おきに切り替えて行うことでどのウォーミングアップ方法が一番タイムが出たかを計測した。そして、一年の時をかけて、そのウォーミングアップの方法を体へとたたき込んだ。  今の俺は、まるでプログラミングされた機械のように無意識のうちに必要なトレーニングを最適の時間で行うことができるようになっている。  全ては今日この日のために。  まずは体温を上げるために『軽いジョギング』から。  体温が上がると、関節を包んでいる膜から滑液という液体が分泌される。滑液は骨の摩擦を軽減し、関節の動きを滑らかにする。  また、筋肉の中では筋肉収縮をコントロールするカルシウムイオンという物質が分泌される。カルシウムイオンは、心臓をはじめとした全ての筋肉をスムーズに収縮させる為に必要不可欠な物質だ。  滑液とカルシウムイオンは筋温が38度の時点で最も機能する。38度にするために必要なジョギングは15分程度だ。俺は自分の体の温度を感じながら、ジョギングに励む。サーモグラフィーなどで筋温を測り、事前に38度がどれくらいの感覚なのか身を通して脳に焼き付けていた。  ジョギングが終われば、次は『動的ストレッチ』だ。  動的ストレッチを行うことで筋肉を柔らかく伸びやすい状態にすることができる。筋肉が緊張して固まった状態で負荷をかけてしまうと筋肉の繊維が切れてしまう危険性があるため、その防止策として行っている。  また、動的ストレッチで発生した熱エネルギーによって体温が上昇し、血管の拡張や酸素の供給をスムーズに働かせることができる。  動的ストレッチのポイントとしては、『上半身からほぐす』ようにすることだ。  上半身をほぐすことで心臓周りの筋肉の血流が良くなり、体全体に血液が循環しやすくなる。それから下半身をほぐしていくことで効率よく血液を回していくことができる。  ストレッチを終えたらいよいよサブトラックで『流し』を行う。  全力の80%くらいのペースで100メートルを走る。速いペースで走り、心臓や血管に負荷をかけることで循環器系が効率よく血液を回せるようにする。それによって、速いスピードに対応できる準備を整えることができる。  さらに、血中温度が上がることで酸素を細胞に送り届けるヘモグロビンの酸素結合度が弱まり、筋肉の酸素利用が向上する。神経系でも、中枢神経の興奮性が高まって神経が敏感になり、パフォーマンスの向上や怪我の予防にも繋がっていく。  流しの本数としては、100メートルを四本行った後、200メートルを一本走って呼吸を深くさせる。それによって、循環器系に丁度良い負荷がかかるという算段だ。  また、走る動きをシミュレーションし、本番に向けての準備を整えていく。  それらを一時間行ったところでアナウンスがかかる。  いよいよ準決勝の始まりだ。サブトラックから移動し、競技を行うトラックへと向かう。  トラックに入ると昨日見た光景が視界に入る。  トラックを照らす明るい光。少し上を見上げれば、星々が綺麗に輝く夜闇が見える。競技場内は多くの観客で賑わい、世界屈指の大会であることを想起させられる。特に前回チャンピオンである俺が登場した際の歓声は凄まじいものだった。  彼らのためにも絶対に負けられない。  レースを行う三組の中で俺は最後だった。自分のレースが始まるまでは他の選手の走りを見つつ、上位三位のタイムを頭に刻む。彼らのタイムは練習で俺が出すタイムとほぼ同じなため、普段通りに走れば、決勝に駒を進めることはできるだろう。  そして、いよいよ俺の番が来る。  レーンを走る順番にアナウンスが送られる。同時にカメラのフレームも動く。俺は自分の番が呼ばれると集中モードに入った。カメラは気にならず、見えるのは自分の走るレーンのみ。  全員が呼ばれたタイミングで一斉にスターティングブロックに足をかける。  決勝へと駒を進めることを前提に考える必要があるため、決勝を意識した走りを見せる必要がある。ここで下手に負荷をかけるわけにはいかない。  準備が整い、開始を告げるアナウンスが流れる。そのタイミングで腰を上げた。  いよいよ後半戦の始まりだ。少し前を見据える。神経を『審判のスタートの合図』に集中させる。ゾーンに入ったことで無言の静寂があたりを包み込む。その静寂に矢を射すように轟音が響き渡った。  足裏に力を入れ、一気に駆け上がる。視界には誰の姿も映らない。力強く足を蹴り、高く腿を上げる。足の回転数を意識しながらスピードを徐々に上げていく。まるで地球が味方してくれているかのように体が軽く感じた。  体を垂直に伸ばし、トップスピードに持っていく。さらに回転数をあげ、ゴールラインに向けて走る。だが、最後のところでほんの少しスピードを緩ませていった。そして、ゴール。  結果を見ると、『フウマ・シグレ』と記載された文字が二位を告げていた。タイムも最後にスピードを緩めた割には申し分ない記録だった。喜ぶのはまだ早いが、心の中で思わずガッツポーズを取ってしまう。  なんであれ、これで再びあの男と戦うことができる。  四年間見続けた空想の背中を今度はリアルに体験することができるのだ。  これが楽しみではないはずもないだろう。そのために今は少し休もう。
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