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Long Time No See
スタジアムを囲う光が俺の行く道を明るく照らし出す。
少し上を見上げれば、闇に包まれた暗い世界が見えるだろう。
だが、俺には見えない。視線は前に聳え立つ神々しい背中のみに注がれている。
先ほどまでは盛大に鼓膜に響いた客の歓声も今は全く聞こえない。それだけ自分の為すべきことに集中できているのだろう。聴覚は消え、代わりに触覚が研ぎ澄まされていく。
一定のリズムを刻む呼吸。全身に轟く風の抵抗。地を蹴る足のバネのような伸縮。
まるで世界がスローモーションになったかのようにそれら全てがゆっくりとした感覚で脳に伝わってくる。
一緒に走る九人の選手たち。その中で俺の視界に映るのは隣のレーンにいるたった一人のみ。彼との距離は僅差であるのに、俺と彼は同じ極同士の磁石のように差が縮まることがない。
見えてくるゴールライン。
地を蹴る強さ、腿の振り幅、腕を振るスピード。それら全てを極限まで上げていく。それでいて、長年意識してきた基本姿勢は呼吸をするように無意識に保てている。
なのに、目の前に聳え立つ彼に一向に追いつける気配がない。どれだけ頑張っても、光る稲妻の如く走る彼には歯が立つ気がしなかった。そのままゴールラインを踏み込み、100メートルと言う短くも長い距離が終わりを告げた。
前を走る彼はそのまま走っていく。彼は俺に見向きもしないで常に前を見据えていた。俺から彼の表情は見えない。今、彼が何を思っているのか全くわからない。
次の瞬間、彼は闇に拐われるように静かに消えていった。
俺はその現象を見て、足の回転を徐々に緩ませていく。研ぎ澄まされた感覚は平常に戻り、観客の歓声が再び鼓膜を打つ。やがて、足が止まるとどっと疲労が押し寄せる。腰を曲げ、腿に手をついた。
全く歯が立たなかった。
これが史上最速の男の実力なのか。
額からポツポツと流れる汗を見ながら俺は先ほどの景色を反芻していた。
「優勝は、フウマ・シグレ!」
場内に流れるアナウンスが高らかに俺の優勝を祝福してくれた。
しかし、彼らの熱をよそに俺の心はすっかりと冷え切っていた。
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