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14 絶体絶命
「ラウーラさんっ!」
私は、飛び込んだ瞬間、事務所の中の薄暗さに目が慣れなくて、状況が掴めなかった。
室内はしんと静まり返って、私の声が反響していた。
「ラウーラさん、どこですかっ?大丈夫ですかっ?」
徐々に目が慣れてきた私は、室内を見回した。
室内には事務机が4台、島になって並んでいた。でも、その机の上にはパソコンや書類、そして文房具の類は見当たらず、蛍光灯のスタンドが乗っているだけだった。
島になっている事務机の奥には、細長いスチール製のロッカーが10台くらい、それと冷蔵庫が並んでいて、その前には応接セットのようなソファとテーブルが置かれていた。
広い部屋の割には備え付けられている物が少なく、室内はガランとしていた。
ただ、目を凝らして部屋の奥の方を見ると、奥の方には仕切られた部屋が何室かあるようで、ドアが並んでいた。
この事務所、何だか変な間取りね……
その奥にある部屋の1室から、ほのかな明かりが漏れていた。
あっ!誰かいる……ラウーラさん?
「ラウーラさん、奥の部屋ですか?」
呼び掛けたけど、ラウーラさんの返事は無い。
私が反射的にその部屋の方に行こうとした時、その部屋のドアが音も無く開いた。
私は、たじろいでしまって、その場で固まった。
「勝手に入って来て……不法侵入じゃないか?」
そのドアから現れて室内の照明を点けたのは、黒っぽいギンガムチェックのネルシャツにブラウンのチノパンというラフな服装の40代くらいの男だった。
白髪交じり髪は耳を覆い隠すくらいの長さがあって、口元の無精ひげにもチラホラ白髪が交じっている。
中肉中背だったが、体格はがっしりしているようで胸板は厚かった。
その男の低い声、確か前にも聞いた。
スアンと来た時、この事務所のドアを挟んで話した男の声だ。
「あんた、前にも来たよね?」
私のことを憶えている……白を切ることは無理っぽい。
「は、はい。
それより、ラウーラさんはどこですか?」
「ラウーラ?」
「そうです。ついさっき、この建物の中に入りました。」
中に引き込みましたよね、とは言えなかった。
「そうだっけ?」
男は白々しく空とぼけている。
「中に入るところを見ていますから、私……」
「……ああ、いるよ。
でも、あんたは日本人だよね?YUKIって名前だっけ?前はヤンガン出身のスアンという娘と一緒に来ていたはずだけど……
ラウーラっていう人も日本人?」
「さあ、分かりません。」
私とスアンの名前を覚えている。
「分からないって、知り合いでしょ?」
「分かりません。」
私はこの男に素直に答えることをしなかった。第一印象から嫌悪感があった。
無意識のうちに少しでも抵抗しようとしたのかも知れない。
でも、それは光彩鑑定人としては失格かな……
「とにかく、ラウーラさんに会わせてください。」
「すぐに会わせてあげるよ。嫌だって言ってもね。」
男の表情が冷徹なものに変わった。
「えっ?」
私は恐怖で足元が震え出した。
「自分でも無謀だとは思わないかい?知らない建物の中に無防備に入ってきたりして……
技能実習の事務所だからって、ウェルカムとは限らないんだよ。
分かる?」
男は、出入口の方に移動すると、ドアをぴったりと閉めて施錠した。
私はスーッと血の気が引いた。
「ラ、ラウーラさんと一緒に、すぐに出て行きます。」
私は、男の背中に声を掛けながら、警察に通報しなかったことを後悔した。
それ以上に、高宮さんに連絡しなかったことが悔やんでも悔やみ切れない。
「まあ、せっかく来たんだから、ゆっくりしていってよ。」
男は私の方ににじり寄ってきた。
私は男と距離を保とうとして後ずさった。
男は、構わずに、にじり寄ってくる。
私は止まらずに後ずさりした。
そして、気が付けば、私は男が出てきた部屋のすぐ前まで来ていた。
やばっ!
これ以上、下がれない……後がない……
と、その時、男は突然、私の方に腕を伸ばしてきた。
「きゃっ!」
私は反射的に目を閉じて首をすくめた。
男は、私の身体には触れず、私の真後ろにあるドアのノブを握って押し開いた。
「さ、どうぞお入り、お嬢さん。」
私は男から逃れるように後ろ向きのまま部屋の中に入った。
「お目当ての人にご対面だ。」
男は視線を私の後ろの方に移してニヤリと笑った。
「えっ?」
「ラ、ラウーラさんっ!!」
ラウーラさんは、粘着テープで口を塞がれ、イスに座らされて、身動きが取れないように後ろ手に縛られているようだった。
「な、なんてことを……」
私は、すぐ近くに男がいることも忘れて、無残な姿で縛られているラウーラさんを解放しようとして駆け寄った。
でも、ラウーラさんは、粘着テープを貼られた口から、「うーっ、ううっ。」とうめき声を漏らして、首を左右に振った。
「大丈夫ですよ。今、助けます。」
ラウーラさんは、私に何かを伝えようとしているのか、今度はアゴと視線で私の後ろを指し示した。
「何ですか?」
私はラウーラさんが指す方向に首をめぐらせた。
一瞬、私の視界の端に、握り締めた棒のようなものを振り上げている男の姿が映った。
その刹那、私は、後頭部の辺りに激痛が走り、目の前が真っ暗になった。
◇
うっ、ううん……
私は目を開いた。
あれっ?私、どうしたんだっけ?
少し頭を動かしたら、ズキズキと鈍痛に見舞われた。
痛っ
……そうだ、確か……ラウーラさんを助けようとして、あの男に……
あれから、どれくらい時間が経ったんだろう。
……ラウーラさんは、どこ?
「……」
何?ラウーラさんの名前を呼ぼうとしたけど、口が開かなかった。
口がテープで塞がれているんだ。
私は縛られたラウーラさんの姿を思い出した。
自分の身体を確認すると、私もラウーラさんと同じように後ろ手に縛られている。
身動きが取れない……絶体絶命の予感……
でも、恐怖心は湧いてこない……不思議とパニクらない。
なんだか自分でもびっくり……
命を絶たれるかも知れないというのに、妙に落ち着いている。冷静だ。
人の最期って、こんな感じなのかな?
……ん?いやいや、そうじゃない。何を諦めているんだ?
死を悟ったように達観してどうする?
全力でこの状況を打破しないと。
ここ、あの部屋のままだよね?別の場所に移されたわけじゃない。
あっ……スマホが無い。あの男に取られてしまったみたい……もう、最悪。
それより、何としてもラウーラさんと一緒にこの事務所から脱出しないと。
そのラウーラさんは一体どこに行ったの?
それに、あの男は?
見回せる範囲にはラウーラさんの姿も男の姿もない。
……あれっ?
背中に人の気配を感じる……
私の後ろ、ラウーラさんかな?
口もきけないし、身体も動かせない。
ラウーラさんもきっと同じ状態。
どうしよう……
取り敢えず、私はその場で身体を揺すってみたり、床を蹴ってみたりした。
でも、よく考えてみると、後ろにいるのがラウーラさんじゃなくて、あの男だったら状況が悪化するだけ。
「ううんっ!ううんっ!」
後ろから喘ぎ声が聞こえた。
こもった声だけど、聞き慣れたラウーラさんの声だ。
……後ろにいる人はラウーラさんに間違いない。
私とラウーラさんは背中合わせにイスに座らせられているみたい……
そうと分かったけど、これからどうすればいいんだろう?
私が考えを巡らせている時、後ろ手に縛られている私の手に触れるものがあった。
暖かい感触。人の手指のようだ。ラウーラさんの手、きっとそう。
すると、その手は私の手のひらを開かせて、そこに指先で何かをなぞった。
何ですか?
私は手のひらに神経を集中した。
恐らく、文字を書いて、それを伝えたいんだと思う。
何度も同じ文字をなぞっているようだ。
ラ?きっとラだ。
私は理解したことを伝えるために、その手を握った。
それが通じたのか、今度は違う文字をなぞりだした。
ウ、つぎはウ。私は手を握った。
その次はラ。分かったら、手を握る。
やっぱり、ラウーラさんだ。
私は安心したくて、ラウーラさんの手をギュッと握りしめた。
その後もラウーラさんからの伝達は続いた。
お。
と。
こ。
く。
る。
ま。
え。
バ。
ン。
ド。
き。
る。
て。
を。
う。
ご。
か。
す。
な。
ラウーラさんは、男が来る前に、私の両手を拘束している結束バンドを切ろうとしている。
ラウーラさん、了解です。
最後にラウーラさんの手を固く握った。
でも、どうやって切るの?
ラウーラさんも縛られているのに……
すると、ラウーラさんは自分の手の甲を私の手首の結束バンドの辺りに押し付けているようだった。
バンドの位置を確認しながら、何度も小刻みに押し付けてくる。
何をしているんだろう……
あっ!……そうか、あの指輪?
貴石の中に刃が仕込まれている指輪。前に居酒屋でラウーラさんが見せてくれた指輪だ。
確か……今日も付けていたと思う。その刃でバンドを切ろうとしてくれている。
ラウーラさん、ホントに心強い。
ラウーラさんが必死に結束バンドを切ってくれていた時、ドアノブが回ってドアが開いた。
カチャッ
あの男が現れた。
ラウーラさんは慌てて指輪を隠したみたいだった。
私もバンドを見られないように隠した。
見つかったら、何をされるか分からない。
「やぁ。気が付いたみたいだな。初対面なのに手荒なことをしてすまなかった。
ただ、あんたらをこのまま逃したら、俺がまずいことになるからさ。」
何がまずいのよっ!私たちにこんな事をするから、まずいんでしょ?
「んんんっ!」
文句を言いたいけど、息が漏れるだけ。
「そっちのラウーラって人、ここで麻薬を作っているんじゃないか、なんて物騒なこと言い出すから、こうなるんだよ。
しかも、ヤンガンの言葉を話すなんて……何を嗅ぎ回っているんだ?」
「うーーんっ!」
ラウーラさんはうめき声を上げた。
「何か言いたいのか?」
男がラウーラさんに近づいた時、ドアの外が騒々しくなっていた。
外国語の言葉が飛び交っている。
恐らく、農作業をしていた作業員たちが戻ってきたようだった。
「ちっ!うるさいな、アイツら。」
男は、舌打ちして、そう言い残すと、部屋から出て行った。
ラウーラさんは、私の手を掴むと、すぐに結束バンドを切断する作業を再開した。
急いでいることが、ラウーラさんの手の動作から伝わってくる。
男が来ないように祈りながらドアを見張っていると、私の両手首がふっと楽になった。結束バンドが解かれた。
ラウーラさん、ありがとうございます。
いま、助けます。
私は、口に貼られた粘着テープを剥がして急いで立ち上がると、ラウーラさんの口のテープも取った。
「YUKIちゃん、まだダメッ!すぐに捕まっちゃうわ。
粘着テープを貼り直して、イスに戻って!
手を縛られているふりをして、逃げるチャンスを待って。」
「わ、分かりました。」
私は、ラウーラさんと私の粘着テープを口に貼り直して、床に落ちた結束バンドを拾うと元の通りイスに座った。
その直後、足音が響いてきて、ドアが勢い良く開くと、あの男が現れた。
あ、危な……
私は胸を撫で下ろした。
「アイツら、人格変わってるんじゃないのか……まったく……」
男はブツブツ呟きながら中に入ってきた。
その時、ラウーラさんが突然わめき出した。
「うっ、ううっ、ううーーん、ん、んっ!」
身体を左右に動かして、両足でバタバタと地団駄を踏んでいるようだ。
「な、何してんだ?どうした?」
さすがに、男はラウーラさんの豹変ぶりに驚いて動揺しているようだ。
そう言う私もラウーラさんの状態が分からずに動揺した。
ラウーラさん、大丈夫?突然どうしたの?
ラウーラさんはうめき声を上げ続けている。
「何だよ?何か言いたいのか?
今、テープを取るから静かにするんだっ!」
男はラウーラさんの口を塞いでいるテープを取ったようだ。
「もう、限界よっ!」
開口一番、ラウーラさんは叫んだ。
「な、何がだよ?」
男は気おされた。
「トイレに行かせてちょうだい。」
「トイレ?」
「そ、早くして。駄目だといったら、ここでするわよ。」
「分かった。分かった。」
男はラウーラさんに手を貸して立たせたようだ。
ラウーラさんは、男に連れられて、ドアから外に出た。
ドアから出る時、ラウーラさんは私の方を振り向いてうなづいた。
私もラウーラさんにうなずいた。
バタンッ!
男は、ラウーラさんと部屋から出るとドアを閉じた。
部屋の中に独り取り残された私……
今、逃げた方がいい?
でも危険……作業員が沢山いるみたいだし……
ここはじっとしている方が賢明な気がする。
……どうしよう。
私があれこれ思案していると、ラウーラさんと男が戻ってきた。
「さ、大人しく、イスに座ってくれ。」
男は、再びラウーラさんの両手を後ろ手に拘束すると、ラウーラさんを促してイスに座らせた。
そして、少し離れたイスに腰かけて、スマホをいじりだした。
素直にイスに座ったラウーラさんは、男に気付かれないように私の手を握った。
伝達、ですね。
私もラウーラさんの手を握り返した。
ユ。
キ。
す。
き。
み。
て。
ひ。
だ。
り。
お。
く。
の。
ト。
イ。
レ。
い。
く。
そ。
こ。
の。
ま。
ど。
か。
ら。
で。
る。
た。
す。
け。
を。
よ。
ん。
で。
わ。
た。
し。
む。
り。
トイレの窓から逃げろって言うの?
そんな漫画みたいなこと、上手く行く?
仮に逃げられたとして、ラウーラさんを独り置いて、自分だけ逃げることはできない。
今度は私がラウーラさんの手に文字を書いた。
お。
い。
て。
い。
け。
な。
い。
ラウーラさんから返信があった。
だ。
か。
ら。
た。
す。
け。
を。
よ。
ん。
で。
ユ。
キ。
い。
き。
な。
さ。
い。
じ。
か。
ん。
な。
い。
……分かりました、ラウーラさん。
でも、私に出来るのかな?
……自信がない。
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