19 逃走

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19 逃走

 私は恐る恐る目を開けた。  目を開ける瞬間、凶弾に倒れる高宮さんの姿が頭をよぎった。 「高宮さん……」  ところが、私の目の前には撃たれたはずの高宮さんが何も変わらずに立っていた。  そして、筧も銃を構えたまま、高宮さんと対峙していた。 「危ないっ!後ろだっ!」  銃を下ろした筧が高宮さんに叫んだ。 「後ろっ?」  振り向いた高宮さんに、ナイフを持ったユンが切りかかって来た。 「うおっ!」  高宮さんは、咄嗟に上半身をよじって、切りかかってきたユンのナイフの切っ先を辛うじて受流した。  かわされたユンは、勢い余ってつんのめるようにして床に倒れ込んだ。 『うわっ!』  筧は、床に倒れたユンを一瞥すると、手にした銃に視線を落としながら呟くように言った。 「慣れていないから、当たらないもんだな。」 「この男を狙ったのか?」  高宮さんが筧に訊いた。 「そのつもりだったけど、見事に外れた。  俺みたいなもんは、ヒーローにはなれないらしい……  ほら、返すよ。」  筧は高宮さんに銃を差し出した。  高宮さんは、筧から拳銃を取り戻すと、信者たちを制止させようとした。 「怪我をさせたくない。みんな下がるんだっ!」  日本語が通じなくても、高宮さんが構えた拳銃は信者に通じたようで、信者たちは襲いかかることを躊躇した。  その時、階段の上から警察官が現れた。 「……こんなところに階段がある。銃声が聞こえたのは、この地下だ。」 「なんだ?沢山人がいるぞ。」 「地下に集まっているのか?」 「群馬県警の方ですかっ?  私は警視庁捜査一課の高宮です。  応援を頼んだ者です。」 「あなた、警視庁の高宮さん?  一体、何がどうなっているんですか?」 「詳しいことは後程。カルト教団が民間人を拘束しています。  確保に協力願いますっ!」  高宮さんが階段の警察官に向かって叫んだ。  そして、すぐさま、ナイフを手にしているユンに向き合った。  突然階段に現れた5人の警察官に、信者たちはパニクっている。  何をどうすればいいのか分からず、地下室の中は、さながらカオスの様相を呈していた。  ユンが高宮さんと対峙していることを確認した筧は、私とラウーラさんの方にやって来た。  な、なに? 「さっきは、すまなかったな。乱暴なことして……」  筧は私たちに謝りながら手の結束バンドを解いてくれた。 「さあ、ここから逃げてくれ。」 「最初からそういう態度だったら、こんな事にはならなかったんじゃない?」  ラウーラさんは語気を荒げた。 「返す言葉はないよ……」  筧は、ぶっきら棒に言った。  拘束を解かれた私は、無意識に手首をさすりながらイスから立ち上がった。  ふと見ると、手首には赤く細かい傷が付いていた。 「ラウーラさん、怪我はないですか?」 「私は大丈夫。YUKIちゃんは?」 「大丈夫です。」 「ミンを連れて、ここから早く出ましょう。」 「そうですね……だけど……」  見ると、階段付近では警察官と信者がもみ合いになっている。 「唯一の出入り口が塞がれちゃっています。」 「そうね。あそこの隅の方で隠れていましょう。」 「はい。  ……あっ、そうだ。これ、ラウーラさんのスマホですよね。」  私はパンツのポケットからスマホを取り出した。 「本当だ。私のスマホ。  ありがとう。  でも、どうしてYUKIちゃんが持っているの?取り上げられたのに……」 「私のスマホと一緒に捨てられていたのを偶然見つけて……」 「よかった。ありがとう。  ……あら、バッテリー切れているわ。」  スマホを受け取ったラウーラさんは残念そうな表情になった。  私とラウーラさんは、ミンが乗っている車イスを押しながら部屋の隅に移動しようとして、目立たないように腰を屈めながら歩き出した。  ミンは車椅子に乗ったまま、ほとんど動かなかった。目を閉じて頭を垂らしている。  ミン、よくなるのかな……  スアンがミンのこの状態を知ったら、どう思うのだろう……  でも、生きていてよかった。  間に合って本当によかった。  心の中に様々な感情が湧き上がってきた。  ……と、その時。  私はその場に立ち止まった。と言うよりも、足が前に出なくなった。 「うっ!」  い、息が……息ができない……  どうやら、背後から首の辺りを羽交い絞めにされている……  そして、私の首筋の辺りに光るものが当たっているのが視界の端に辛うじて見えた。  最悪……  冷たい金属の感触……ナイフに間違いなさそう……  拘束から解放されたのも束の間、私は再び恐怖の深淵に引きずり込まれた。 『一緒に来てもらうぞっ!  あんたは動くなっ!  この女がナイフの餌食になってもいいのか?』  ファイサルの声だ。  私を人質に取って、ラウーラさんをけん制しているみたい……  ファイサルは、私を羽交い絞めにしたまま、強引に引き連れて歩き出した。  私が抵抗して身体を動かそうとすると、余計に首が締まって息ができなくなった。  その上、鋭利なナイフが私の首元を狙っている。  どうすることも出来ない……ファイサルに従うしか選択肢はない……  ファイサルは、無言のまま、私を引きずって祭壇の方に歩いた。 「乱暴はしないでください……言う通りにしますから……」 『…………』  ファイサルは、私の言うことを理解していないのか、それとも無視しているのか、無反応のまま黙々と歩いて祭壇の裏側に回った。  祭壇の裏側に回ると、そこにはドアがあって、ファイサルは無言のまま、そのドアを引き開けた。  開かれたドアの奥は、薄暗くてよく見えなかった。  ファイサルは、私から手を離すと、中に入るようにナイフの刃先を振って促してきた。  目つきが鋭く、有無を言わせない雰囲気が漂っている。  私は、ファイサルに従わざるを得ず、指示通りに中に入った。  その小さな部屋の中には、床の上に直接布団が敷かれているほかは、小さなテーブルがあるだけのようだった。  ミンはこの部屋から車イスに乗せられて、私たちの前に現れたんだと思う。  恐らく、この部屋で寝起きしていたに違いない……  私に続いて中に入ったファイサルは天井の隅に向かって、小さなリモコンのようなもののスイッチを押した。  すると、天井の隅の部分が開いて、モーター音と共に金属製のハシゴがスルスルと降りてきた。  こんな仕掛けがあるの?  まるで忍者屋敷みたい。  無邪気な子供なら、ワクワクしそうな部屋だ。  このハシゴ、どこまで続いているんだろう?  私が見上げていると、ファイサルは私の肩を押して、ハシゴを上るように命じた。  相変わらず、手にしているナイフを振って、私を威嚇してくる。 「上ればいいんでしょ?」  私は危害を加えられないように小さくうなずいて、ハシゴに両手を掛けた。  金属製のハシゴは冷え切っていて、手のひらの熱がみるみる奪われていった。  ハシゴの先の方は闇に包まれていて、どのくらいの高さがあるのか、皆目見当が付かなかった。  慎重に両手両足を冷たいハシゴに掛けながら上って行くと、ファイサルも私のすぐ下に続いて上って来ていた。  私は、数メートル上ったところで、足元にいるファイサルの顔面を蹴飛ばしたい衝動にかられた。  ハシゴを上っている今のファイサルなら、ほとんど無防備だ。ナイフもうまく使えないはず。  衝動に身を任せて、一か八か蹴飛ばしてみようかな?  ……思慮が無さすぎね。この先がどうなっているのかも分からないのに。  私が危険な衝動を抑え込んで黙々と上っていると、先の方が天井のように塞がれていて、これ以上は上れなくなった。 「これ以上は行けなくなっているわ。」  私はファイサルを見下ろして言った。 『プッシュ、プッシュ。』  ファイサルは当然のように言った。 「押せばいいの?」  私は天井の部分を右手で押してみた。  すると、天井の部分が蓋のようになっているのか、あまり力を加えなくても押し上げることができた。  その天井の隙間からは光が差し込んできた。  暗闇の中にいた私は、思わず目を細めた。  これって陽の光?  外?  吹き込む風に運ばれて、草の香が入ってきた。  やっぱり外に通じているんだ。  どうする気だろう?  ……私を解放してくれる気はないわよね。 『アウトサイド!ゴーアウトサイド!』  ファイサルは急かすように叫んだ。 「うん。オーケー……」  私は、地下のハシゴを上り切ると、両手を地面に付けて慎重に上体を地上に出した。  そして、地下から地上に出て、立ち上がって辺りを見渡すと、そこは今いた事務所の建物の側面に近い敷地内の草むらだった。  こんなところに出るんだ……  事務所の赤い屋根を見上げると、屋根は西日を受けて、より一層赤みを増していた。  あの禍々しい暗黒の光彩は消えていた。  そりゃ、そうよね。  光彩の発生元は私の隣にいるんだから……  ファイサルは地上に出ると、片方の手で私の腕を掴み、もう片方の手でナイフを握った。  そして、キョロキョロと何かを探しているようだった。 『おっ!』  短く声を上げると、安心したように首を縦に振った。  ファイサルの視線の先には黒のミニバンが停まっていた。  私を強引に引き連れて歩き出すと、リモコンでミニバンのドアロックを解除した。  ミニバンの助手席のドアを勢いよく開けると、私を車内に乱暴に押し込み、ファイサルは運転席に座った。 『ドントムーブ!動くなっ!』  そう言いながら、ナイフをチラつかせた。  逃走?  この車で逃げる気?  お願い、思い直して。危険だから……  ◇  一方、祭壇のある地下室    高宮がナイフを手にしたユンと対峙していると、ラウーラの声が耳に突き刺さった。 「刑事さんっ!YUKIちゃんが連れ去られたっ!」 「えっ?由紀子さんがっ?」  高宮はラウーラの顔を横目にチラッと見ながら言った。 「ファイサルに連れて行かれたっ!お願い、何とかしてっ!」 「くそっ!」  高宮は歯ぎしりした。 『ファイサル様のところには行かせんっ!』  高宮とラウーラの会話の内容を理解したユンは、今にも高宮に飛びかかりそうな気配だ。  一刻も早くYUKIの後を追いかけたい高宮だったが、目の前のユンに手を焼いていた。  早くこの男を確保して、由紀子さんを助けないと……  やむを得ないな……  高宮は、銃の照準をユンの太もも辺りに定めると、トリガーに人差し指を掛けた。  そして、トリガーを引こうとした、正にその時だった。  筧が密かにユンの背後に近づいたと思った瞬間、ナイフを持つユンの手首を手刀で叩いた。  すると、ユンは驚いて、握っていたナイフを床に落としてしまった。  カコン……  床に落ちたナイフから乾いた金属音が響いた。 「こいつは俺が止めておくっ!早く行けっ!」  筧は、そう叫ぶと、ユンにタックルした。  ユンは、いとも簡単に床に押し倒されてしまった。 「すまん、頼むっ!」  高宮は、銃を仕舞うと、小さく頭を下げた。 「多分、祭壇裏の部屋にあるハシゴだっ!」  筧は、ユンを床に押さえ付けたまま言った。 「了解したっ!」  高宮は祭壇に向かって脱兎のごとく走り出した。  どこだ?  祭壇の裏に回り込むとドアがあった。  この部屋か……  高宮は、立ち止まって銃を構えると、ドアを少しだけ開けて中の様子を確認した。  中は真っ暗だったが、ドアを開けると照明が付いた。  そして、一瞬のうちに、冷気が高宮の身体を包み込んだ。  えっ?  冷凍庫?  何でこんなところに冷凍庫があるんだ?  高宮は、大の大人が4、5人は楽に入れそうな広さの冷凍庫の中を確認した。  あっ!  一瞬、高宮の動作が止まった。  中には、半透明のビニール袋に包まれた人間のようなものがあった。  こ、これは本物の人間の遺体だよな?  高宮はビニールの中をよく確認した。  ……あ?  この遺体、あの時のヤクの売人じゃないのか?  顔つきが似ている。  でも、手足がない。首と胴体だけだ……  これじゃ、身長は分からないが、この顔つきは恐らく間違いない。あの売人だ。  そして、この遺体が例の遺体だとしたら、左腕があるはずだ。  高宮は屈んで奥の方を調べた。  ん?  あれがそうかな?  冷凍庫の奥にビニールで何重にも包まれた腕が置かれてあった。  高宮が確認すると案の定左腕だった。  これで間違いないな。  納沙布岬や神崎鼻公園で発見された遺体の一部は、ここにいる売人のものだ。  酷いことをする……人間の所業とは思えない。鬼畜だな。  高宮は丁寧に遺体に両手を合わせた。  そして、冷凍室のドアを閉めた。  このドアじゃないとすると、向かいのあのドアがそうか。  高宮は、再び銃を構えると、同じようにドアを少しだけ開けて中の様子を確認した。  ……人の気配は無さそうだ。  慎重に部屋の中に入ると、天井からハシゴが延びていた。  このハシゴか?  下からハシゴの先の方を見上げると、夕日に染まった空が四角く切り取ったように見えた。  外に繋がっているのか……  高宮は銃を仕舞うとハシゴを上りだした。  リズムよく軽やかに上ると、地上に近づいたところで一度止まった。  耳を研ぎ澄ませて地上の様子をうかがっていると、車のエンジンが始動する音が聞こえてきた。  車か……ちくしょっ!  高宮は、慌ててハシゴを上ると、飛び上がるようにして地上に出た。  どこだっ?  あの車かっ?  高宮は、確信したように、黒のミニバンに向かって猛然とダッシュした。  ◇  ミニバンに拉致された私は、視界の端に入ってきた人影が気になって振り向いた。 「あっ、高宮さん……」  信じられなくて、思わず呟いた。 「高宮さんっ!」  私は反射的に助手席の窓を開けて叫んだ。  こんな状況なのに大胆な行動を取った自分に驚いた。 『窓を締めろっ!』  ファイサルは慌てたように叫んだ。  助手席側のドアミラーを見ると、高宮さんが鬼気迫る形相で走って来ていた。  高宮さん、危ないことはしないで…… 『あ、アイツ……』  ファイサルはアクセルを思いっきり踏み込んだ。  ミニバンは唸り声を上げると、タイヤから砂煙を巻き上げながら走り出した。  高宮さんとの距離が見る見るうちに離れていく。 「ダメかっ!さすがに追いつけないな。」  高宮は立ち止まると銃を構えた。  タイヤだ。  どんどん加速して遠ざかって行くミニバンの後輪に狙いを定めて、立て続けに数発撃った。  パン、パン、パンッ!と乾いた発砲音が辺りに響いた。  高宮の拳銃から放たれた銃弾は、ミニバンのバンパーや地面に当たって、ミニバンを止めることが出来なかった。 「きゃっ!」  後ろの方から銃声が聞こえてきて、私は短く悲鳴を上げた。 「マズいっ!逃げられるっ!  止まれっ!」  高宮は追い付けないと分かっていても再び走り出した。 『よし、大丈夫だ。』  ファイサルは、高宮さんがついてこられないと分かって、安心したような表情になった。  そして、一瞬、緊張が緩んだようだ。  それを見計らったように、ミニバンの前に突然人が現れた。  しかも、銃を構えている。 『何だ?あのオヤジ?』  ファイサルは反射的に急ブレーキを踏んだ。  タイヤがロックして白煙を上げた。 「うわっ!」  私は、前につんのめって、ダッシュボードに顔面をぶつけそうになった。  誰?警察の人?  見知らぬ男性だ。 「高宮っ!!車のヤツ、被疑者だな?!」  その男性は銃を構えたまま叫んだ。 「待ってっ!車の中に由紀子さんがっ!民間人が乗っていますっ!」  高宮さんが慌てたように呼応した。  その声が届かなかったのか、その男性は、運転席のファイサルに目掛けて発砲した。 「待てっ!」  高宮さんが怒鳴るように叫んだ。 『ゔっ!』  ファイサルが短くうめき声を上げた。  その銃弾はフロントガラスを突き破って、ファイサルの右肩の辺りに命中したようだった。  ファイサルは、苦悶の表情を浮かべながら左手で傷口を抑えて、躊躇なくアクセルを踏み込んだ。  その発砲してきた男性を轢き殺そうとするような勢いだ。 「うわっ!」  発砲してきた男性はミニバンに弾かれるように横に飛ばされた。  その瞬間、見ていられなくて、私は顔を伏せた。  乗っているミニバンには、「ドン」という鈍い音が響くと同時に衝撃が走った。  大丈夫?  顔を上げた私の座席の位置からは、その男性がどうなったのか、よく見えなかった。  息遣いが荒くなっているファイサルは、構わずにミニバンを走らせた。  額にはあぶら汗が浮いている。  ◇ 「大丈夫ですかっ?」  高宮はその男性の元に駆け寄った。 「痛たた……ああ、ちょっとかすっただけだ。」 「……松延さん、どうしてここに……」 「俺だって、バラバラ殺人の捜査中だ。君と話した後、すぐに飛行機に飛び 乗った。  ……そんなことより、俺の車両を使え。すぐそこだ。  と言っても、群馬県警の借りものだけどな。  早く追え。人質を取っているんだろ?」 「はい。それなのにどうして発砲したんですか?」  高宮は無意識のうちに詰問調になっていた。 「こう見えても、射撃の腕前は中々のもんだ。  あの至近距離……まだまだ射撃大会で入賞した腕は衰えていない。  被疑者に当たったはずだ。」 「……そうなんですか。  射撃の腕前、知りませんでした。」 「いいから、行けっ!時間が無い……」 「分かりました。」  高宮は松延が乗ってきた警察車両に飛び乗るとファイサルとYUKIの後を追った。  ◇  「希望の農園」の事務所の周りには、何台もの警察車両が次々と到着して、警視庁と群馬県警の捜査員が続々と事務所の中に入って行った。  普段はのどかな下仁田の町だったが、この日ばかりは騒然としていた。  高宮を見送った松延は、肩で息をしながら脇腹をさすった。 「痛っ……」  そのさすった手のひらを見ると、べったりと鮮血で染まっていた。  当たりどころが悪かったな……  松延は、崩れるようにしてその場に倒れ込んだ。
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