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2 グエン・スアン
今から6か月前
都内池袋駅近くの海鮮居酒屋 海宝
「2人なんですけど、空いていますか?」
私とラウーラさんは久しぶりに池袋の駅近にある海宝の暖簾をくぐった。
「スアンちゃん、お客さんよろしくっ!」
レジ打ちしていた店長が女性の店員に声を掛けた。
「店長、了解です。」
奥のテーブルの食器類を片付けていたスアンは、私たちの方に振り返ると笑顔になって、エプロンを整えながら小走りにやって来た。
美しい褐色の肌をした、黒い瞳の快活な女の子。そんな形容がスアンにはピッタリ。
「いらっしゃいませっ!ラウーラさん、YUKIさん、久しぶりです。」
「久しぶりね、スアン。」
ラウーラさんもスアンの元気そうな姿を見て嬉しそうだ。
「こちらの席、どうぞ。」
スアンは空いているテーブルに私たちを案内した。
「日本語、すごく上達したね。」
少し見ないうちに、スアンの日本語力は驚くほど上達していた。
「……少しです。」
スアンは少し照れたように頷いた。
日本に来て1年と数か月。お世辞でも嬉しい。
「YUKIちゃん、いつものやつでいい?」
ラウーラさんがメニューを眺めながら訊いてきた。
「……はい。いいです。」
正直、ラウーラさんの言う、いつものやつが何かは分からないけど、飲む時はいつもラウーラさん任せ。
お酒に対する向き合い方が、私なんかとは格段に違う。
……多分、いつものやつは生ビールのことだと思うけど。
「生2つ。」
ラウーラさんは、大きな貴石の指輪を付けた人差し指と中指でVサインを作ると、スアンにオーダーした。
特に、中指に付けている深紅の貴石は他の貴石よりも格段に大きく目立っていた。
「はい、よろこんでっ。」
スアンは、オーダーをメモると、私たちに小さく頭を下げて、厨房に向かった。
「ラウーラさん、その宝石、凄いですね。」
私はラウーラさんの中指に輝いている貴石を見ながら言った。
「ああ、これ?イミテーションよ。」
「そうなんですか?ラウーラさんが付けていると本物に見えますよ。」
「ほんと?ありがと。
でもこの指輪、イミテーションだけど年代ものなのよ。」
「骨董品ですか?」
「そうなの。なんでも中世の頃に作られたものらしいわ。」
「へえ、貴重な指輪なんですね。」
「それにこの指輪、ちょっとした仕掛けがあるの。」
「仕掛け?」
「見てて。」
ラウーラさんはそう言うと、指輪の台座を親指で押した。
すると、小さく細いナイフのような刃が宝石の中から飛び出した。
「うわっ!びっくりしたっ!」
私は目を見張った。
「ふふっ!すごいでしょ。」
ラウーラさんは悪戯っぽく笑った。
「はい。何ですか、それ?」
「正確なところは分からないんだけど、恐らく、中世の貴婦人の護身用として作られたものらしいわ。」
「へぇ……」
「実用的なものかどうかは分からないけどね。」
ラウーラさんは貴石の中から飛び出した刃を慎重に押し戻した。
現代では、ラウーラさん級の人にしか似合わない代物ね……
◇
「生2つです。」
スアンは厨房の中に向かってオーダーを伝えると、お通しの大根の煮物を2つ用意した。
そして、ビールが注がれたジョッキとお通しをトレイに乗せると、2人の待つテーブルへ運んだ。
「後で食事の注文を聞きますね。」
スアンは、ジョッキとお通しをテーブルに置きながら、私たちに説明した。
スアンの説明が終わるか終わらないうちに、ラウーラさんが、「とりあえず、アジのなめろうとブリの煮付け!」と、食い気味に注文した。
「あっ、はい。よろこんでっ。」
スアンは笑顔で応じた。
そして、あじなめ、ぶりに、とメモに書き込んでいると、ラウーラさんはジョッキを持ち上げた。
私も慌ててジョッキを持つと、ラウーラさんは「じゃあ、乾杯っ!」と言って、キンキンに冷えた生ビールを勢いよくゴクゴクと喉に流し込んだ。
「ふう……ビールはやっぱりのど越しよね。」
ラウーラさんは満面の笑み。
「そうですね。」
私もひと口ビールを飲んだ。
スアンは、私たちが飲み始めるのを待ってから、オーダーを伝えるために再び厨房に戻った。
そのスアンの後ろ姿を眺めながら、ラウーラさんが口を開いた。
「スアン、頑張っているみたいね。バイトしながら大学に通って。」
「本当ですね。彼女、信念が強そうですから、故郷に帰っても大学で学んだことを活かして、夢を実現できると思います。」
「スアンの国って、多くの人が貧しい中で暮らしているじゃない。
それを、彼女みたいな人が変えていくんだわ。
私にも同じ血が4分の1流れているから、親近感が湧くのよね。」
ラウーラさんが自分のルーツをさらりとカミングアウトした。
「えっ?同じ血が流れているんですか?」
私はビールを飲む手を止めた。
「あら、言ってなかった?
私の母方のおばあちゃんがスアンと同じ国の人で、母はハーフ。だから私はクォーターなのよ。
それに、おばあちゃんの出身地はスアンの故郷と近い地域なの。」
「そうだったんですか。初めて聞きました。」
「それもあるから、彼女のこと、余計に応援しちゃうわ。」
「これも何かの縁ですね。」
「そうよね。」
ラウーラさんは再びジョッキに口をつけた。
私はお通しの大根の煮物を箸で二つに割った。箸にあまり力を入れていないのに、大根はほぐれるように簡単に割れた。
たかがお通し。されどお通し。
お通しの煮物にも手を抜かないお店の姿勢に嬉しくなる。
二つに割った大根からは、ほんのりと柚子の香り。
私は、結構鼻が利く。
味が十分に染みている大根は予想を超えて美味しかった。
このお通しだけでもビールが進む。
ラウーラさんと私がいい気分になって飲んでいると、スアンが程なく戻ってきた。
「ラウーラさん、YUKIさん。
すいませんが、私、上がりの時間です。」
「ああ、そうなの。残念。」
ラウーラさんが名残惜しそうに言った。
「ごゆっくり、どうぞ。」
スアンは、ラウーラさんと私に頭を下げると、再び厨房に戻った。
◇
厨房に戻ると、同じ学科の友人でもあるバイト仲間が声を掛けてきた。
「スアン、もう上がりの時間でしょ?」
「うん、上がる。マーケティングのテストがあるし、勉強しないと……」
スアンはエプロンを外しながら答えた。
「スアンは真面目ねぇ。私も上がりだから、ちょっとお茶でもしていかない?」
「……うーん。やっぱり真っ直ぐ帰る。理恵も帰ろう。明日、テストって言ってなかった?」
「うん?まぁ、ねぇ。それなりの解答を書いとけば何とかなるものよ、試験なんて。」
理恵はあっけらかんとしている。
スアンは理恵の楽天的な性格がちょっぴり羨ましかった。それでも、日本の大学に留学して多くを学ぼうとする意欲には、夜遊びの誘惑も適わなかった。
「店長、上がりまーーす。」
スアンと理恵は店長に報告するとロッカールームに向かった。
「そういえば、スアン。彼氏とは上手くいってる?超長距離恋愛だから大変でしょ?」
理恵が私服に着替えながらスアンに聞いてきた。
「大丈夫、愛し合っているから。」
スアンは冗談っぽく答えた。
「ワオ!ご馳走さま。」
「ご馳走さま?」
スアンは小首をかしげた。
「羨ましいってことよ。」
「日本語は難しい……」
居酒屋を出たスアンは、理恵と別れて池袋駅に向かった。
屋外の熱気は初夏の気候とは程遠く、湿気のある、淀んだ重たい空気が体にまとわりついて来る。
故郷の夏も暑くて湿度も高いけど、空気がこんなに重く感じることは無い。
東口から駅の構内に入って、いけふくろうの像の近くでバッグの中からスマホを取り出すと国際電話を架けた。
向こうは夕食を食べた頃かな。
『あっ、ミン?もう夕食、食べた?』
『ちょうど食べ終わったとこ。
スアン、もうすぐテストでしょ?勉強は順調?』
『うん。バイトが終わったから、これから寮に戻って勉強するわ。』
『あんまり無理しない方がいいよ。スアンは頑張りすぎるから。』
『ありがとう。気を付けるね。』
『早く日本に行って、スアンに会いたいよ。』
『私もミンに会いたい。』
スアンはスマホを持っている手に力を込めた。
『うん。
……そうだ、俺、昨日マーケットに行ったんだけど、偶然、スアンのご両親に会ったよ。』
『私の両親?最近連絡していなかったな。元気そうだった?』
『挨拶して、二言三言、話しただけだけど、変わりなく元気だった。』
『そう、よかった。』
『スアンも順調に勉強しているって言っておいた。』
『ありがとう。』
スアンはミンと話しながらホームに向かった。
『それはそうと、スアン、ビッグニュース!』
『ビッグニュース?なになに?』
『もうすぐ、俺も日本に行けそうだよ!』
『え?本当?
準備金を貯めるのにもう少しかかるって言っていたから、まだ先かなと思ってた。』
『ところがさ、最初に登録したブローカーっていうか、送り出し機関とは別の ブローカーは準備金が半分くらいなんだ。
それで、登録し直した。』
『半分って、なんか不安。大丈夫なの?』
『面談したけど、担当の人もいい人そうだし、シモニタ?の農業法人で技能実習できるって言ってた。
シモニタって、スアンのいるトーキョーから近いんでしょ?』
『下仁田?……まあ、そんなに離れてはいないかな。日本は電車とか移動手段が発達しているから。』
『だよね。早くスアンのいる日本に行きたいなぁ。そして、農業の技術も学んで故郷に広めたい。』
『うん、ミンだったらできるよ。』
『大学に通っているスアンとは違うけど、俺も日本でスアンと一緒に頑張るよ。
ファイサルも一緒に行くし。』
『えっ?ファイサルも一緒に来るの?何か急な話ね。』
『新しいブローカーを紹介してくれたの、ファイサルだし。』
『そうなの……本当に大丈夫?』
『それ、どういう意味?ファイサルが心配だってこと?』
『うん、まあ……』
『大丈夫だよ。あいつのことはガキの頃から知っているし。
ちょっと、道を誤って、ストリートギャングみたいなことをしていた時期もあったけど、今は更生している。ちゃんとしている。
じゃないと、日本で技能実習生をしようなんて思わないでしょ?』
『そうね……分かった。
……もう少ししたら、ミンに日本で会えるのね。なんか夢みたい。』
『夢じゃないよ、現実だ。もうすぐ、実現する。』
『うん。すっごく楽しみっ!
……あっ、電車来るからもう切るね。また、連絡する。』
『分かった。愛しているよ、スアン。』
『私も愛してる。』
スアンは足どり軽く電車に乗り込んだ。
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