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20 危険な逃避行
ファイサルが運転するミニバンは私を乗せて農道のような細い道を進んでいた。
よりによって、何でこんな細い道を走るの?
「ファイサル!ギブアップ!もう諦めて!怪我をしているのに……」
『俺は諦めない……どこまでも付いて来てもらうぞ……』
ファイサルは額から玉のような脂汗を流していた。
呼吸も浅く速くなっている。
車に乗り込んだ時に羽織っていた赤いローブを脱ぎ捨てていたファイサルは白Tになっていて、右肩の部分が赤く染まっていた。
撃たれた傷口が塞がっていないようで、出血が止まらない。
出血は白Tをあっという間に赤く染めていった。
「このままじゃ、失血死してしまう……」
私は、ある光景が脳裏にフラッシュバックした。
私が小学生の時だった。
母親が亡くなっていた時の光景。
アパートの居間で倒れている母親のお腹の辺りに血だまりが出来ていた。
その血だまりが少しずつ大きくなって、母親の側に立っていた私の白いソックスを赤く染めた。
白を赤く染めていく大量の流血イコール人の死……私の克服できないトラウマ……
ファイサルの横顔をよく見ると、唇は紫色に変色して震えている。
眼つきもおかしくなって、時々視点が定まらないようだった。
徐々にミニバンの運転も覚束なくなってきて、ミニバンは農道を蛇行しながら走っていた。
ファイサルは、時々頭を左右に振って、正気を保とうとしているようだった。
なんとなく嫌な予感がする……
「ストップ!ファイサル、車を止めてっ!」
私は何度もミニバンを止めさせようとしたけど、ファイサルは聞く耳を持たない。
私の声が聞こえていないのかも知れない。
そんな状況の中、前方にT字路の交差点が近づいてきた。行き止まりだ。
山の斜面を切り開いた道路のためか、前方は、崖崩れを防ぐための、一面コンクリートの法面になっていた。
その灰色のコンクリートの壁が徐々に大きくなって私たちに迫って来ていた。
それにもかかわらず、ミニバンのスピードは一向に落ちない。
外の景色は飛ぶように後方に流れて行く。
私は怖くなってファイサルの方を見た。
……絶望的な状況だった。
ファイサルはうなだれているように頭を下げていた。
どう見ても気を失っている……
そ、そんな……
どうしたらいいの?……そんなことを思う余裕もない。
頭に死がよぎった。
私は自分の右手の近くにあったハンドブレーキを咄嗟に引くと、ファイサルの右脚太腿のズボンを力任せに引っ張って、アクセルからファイサルの足を離そうとした。
すると、アクセルペダルからファイサルの足が上手く離れたのか、ミニバンの速度が落ちてきた。
火事場の馬鹿力って、本当なのね。
それでも、交差点の手前でミニバンが止まれるようなスピードには落ちていない。
そびえ立つようなコンクリートの壁は、もう目と鼻の先に迫っている。
私は、助手席に座ったまま、無意識のうちにステアリングを握っていた。
お願いっ!曲がって!
ステアリングを目一杯左に切った。
ミニバンのタイヤは軋んで、「キキキキイッ!!」と悲鳴のような音を響かせた。
曲がろうとする遠心力で私の身体は右側に振られた。抵抗できない程の大きな力だ。
ミニバンは運転席側に大きく傾いたようだった。
次の瞬間、身体が宙に浮いたような感覚になった。
ミニバンは堪え切れずに横転して、「ガガガガガーーッ」と金属とアスファルトが激しく擦れ合う不快な金属音をたてながら横滑りになった。
運転席側の窓ガラスも衝撃で粉々に割れて、その破片が車内にも飛び散った。
そして、ミニバンはそのまま路肩の草むらに突っ込んでようやく止まった。
「う、ううっ……」
……生きている。どうやら助かったみたい……
目を開けると、ミニバンのエンジンルームから白煙が上がっているのが見えた。
ミニバンは運転席側を下にして横転したままのようだ。
私はシートベルトに支えられてどうにか助手席に留まっていた。
白煙?……なんか白くない。赤っぽい、煙が……
て言うか、視界に入るもの全てが赤っぽい。
あれっ?
見えているものが赤いんじゃない……私の目がどうかなっているみたい……
私は手の甲で目の周りを拭った。
すると、手の甲には血が付いていた。
どうやら、頭か顔を負傷しているみたい……
流血している。
生暖かい……
それに、身体もあちこちが痛い。どこが痛いのか分からないくらい。
運転席を見ると、私の血が滴り落ちてファイサルの白Tに点々と赤いシミを付けていた。
そのファイサルはピクリとも動かない。
生きているのか、死んでいるのか、それすら分からない。
「…………」
あれっ?
声を掛けようとしたけど、声にならない。
どうして?
……こんな宙ぶらりんの態勢なのに。
こんなに身体中に怪我しているのに。
こんな危機的な状況なのに。
なんだか眠たくなってきた。
すごく眠い。
徹夜明けの朝みたい……
意識が遠のいて行く。
考えることが出来ない。
「ゆ……き……」
ん?
なんか、遠くの方から声が聞こえてきた気がする。
聞き覚えがある声だ……確か……安らぐ……
……そうして、私は意識を失った。
◇
高宮は、車両の回転灯を点けてサイレンを鳴らしながら、YUKIとファイサルが乗った黒のミニバンを追跡していた。
どこに向かっているんだ?
ファイサルといったな……
捜索願が出ていた男の知人?
それが密売組織の首謀者……
と言うよりも、実際にはカルト教団の教主。
表向きは技能実習生の受け入れ事業者。その実態がカルト教団。
おとり捜査で俺が接していた売人も信者だったのか?
ヤクが資金源のカルト教団。
ヤンガン出身者のカルト教団。
何なんだ一体……
この事件は、当初の見立てとは、まるで違ったな。
ただのヤクの密売組織じゃなかった。
高宮の前を行くミニバンは結構なスピードを出していた。
大丈夫か……そんなに飛ばして……
由紀子さんが乗っているんだぞ。
距離を詰めたら危険か……すこし間を開けよう。
高宮は少しアクセルを緩めて、ミニバンと距離を取った。
農道を突き進むミニバンは、直線の道を走行しているにもかかわらず、突然、左右に蛇行し始めた。
道路を外れてタイヤが路肩にはみ出す度に砂煙が舞い上がった。
あいつ、松延さんに撃たれたのは間違いないようだ。
手負いの状態だ。
ヤバいな……事故ったらどうする……
ファイサルだけが乗っているならまだしも、由紀子さんを人質にするなんて……
くそっ!
どうすれば、あの車を止めることが出来る?
この車を前に出して無理矢理止めるか?
危険すぎる。
向こうはミニバンだ。車高が高くて、こっちより安定性に欠ける。
何かいい方法はないのか?
高宮が思案していると、ミニバンはT字路に近づいているにもかかわらず、スピードを落とす気配が全くなかった。
「どうした?
早くブレーキを踏むんだっ!
壁にぶつかるぞっ!」
高宮の念が通じたのか、ミニバンのスピードが若干落ちたようだ。
それでも、T字路を曲がるには、まだまだスピードが出過ぎでいることは一目瞭然だった。
「ブレーキだっ!ブレーキを踏むんだっ!」
高宮は車内で叫んだ。
「頼むっ!止まってくれっ!」
高宮が叫んだその時、ミニバンはオーバースピードのまま、ギリギリのところでT字路を左に曲がった。
「危ないっ!倒れるっ!」
高宮の言葉通り、ミニバンは遠心力に耐え切れずに横転した。
横転してもスピードはすぐには落ちずに、ミニバンの側面と道路が接しているところから摩擦で無数の火花が飛び散っていた。
そして、ミニバンは路肩の草むらに突っ込んでようやく止まった。
「くそっ!」
高宮は乗っている車をミニバンに横付けすると車から飛び出した。
急いでミニバンの前面に回ると、フロントガラス越しに中の様子を確認しようとした。
エンジンルームから白煙が勢いよく上がって視界を遮っていたが、白煙の切れ間から中を確認すると、ぐったりして動かないYUKIの姿が目に飛び込んできた。
頭部を怪我しているようで、YUKIの端正な顔は鮮血に染まっていた。
「由紀子さんっ!」
YUKIは高宮の問い掛けに答えなかった。
どうやって助ける?
時間が無い。
ガソリンに引火するかも知れない……
上になっている助手席のドアからは助け出せそうもない……
フロントガラスを割るしかないか……
ん?
高宮が銃でフロントガラスを割ろうとした時、フロントガラスの運転席側に小さな穴が開いてひび割れているのを見つけた。
高宮は、躊躇なく、その穴の辺りを力一杯に蹴飛ばした。
すると、フロントガラスはまるで蜘蛛の巣のように放射状にひびが入った。
高宮は全面にひびの入ったフロントガラスを拳で慎重に叩きながら崩していった。
フロントガラスを取り除くと、運転席のドアにへばりつくようにファイサルが倒れていた。
高宮はファイサルの首筋に指を当てて脈を確認したが、拍動はなかった。
亡くなっている……
高宮は、ファイサルの亡き骸を抱え上げると、ミニバンから外に出した。
そして、運転席の方から乗り込むと、同じようにYUKIの首筋に震える指を当てて脈を確認した。
……よかったぁ、大丈夫だ。生きている。
生存を確認すると、YUKIの身体を支えながらシートベルトを外そうとした。
ただ、YUKIの体重がシートベルトの留め具にかかっていて、なかなか外すことが出来なかった。
その上、高宮の顔やワイシャツにも付く程YUKIの流血の量が多いために、高宮を増々焦らせた。
早く助け出して、手当てしないと……手遅れになる。
焦りで手元が狂ってシートベルトが外せない。
くそっ!
なにやってんだ、俺っ!
そのうち、「ガチャ」と音がしてシートベルトがはずれた。
その瞬間、YUKIが高宮の両手に落ちてきた。
よしっ!
高宮はYUKIをがっちりと受け止めるとミニバンの外に出した。
そして、YUKIを抱いたまま、小走りにミニバンから離れようとした。
10歩も行かないうちに、ミニバンから「シューー」と怪しげな音が鳴りだしたと思った瞬間、「バウンッ!」と爆発音が響いて、ミニバンは燃え上がった。
あ、危な……
高宮は、振り向いて、燃え盛るミニバンを一瞥すると足を止めて、その場の草むらにゆっくりとYUKIを下ろした。
そして、自分の手のひらを枕代わりにしてYUKIの出血している頭を乗せると、ハンカチで頭の傷口をふさいだ。
すると、ハンカチは見る見るうちに赤く染まっていった。
ダメだ。
血が止まらない……
「もしもし、消防ですか?重傷者が2名います。
車両の単独事故ですが、そのうち1名は銃弾を受けて脈がありません。
…………はい。
私は警視庁の捜査員です。
……そうです。下仁田の事件の関連です。
事件に巻き込まれた市民の方が頭部に損傷を受けていますっ!
重症ですっ!
至急願いますっ!」
高宮はスマホで消防に救急の要請をするとYUKIの顔を見つめた。
「YUKIさん……頑張るんだ。」
YUKIの顔は流血が渇いて、どす黒い血のりのようになっていた。
それとは対照的に、YUKIの顔色は蒼白だった。
高宮はYUKIの顔についた血のりを手で拭った。
その時、YUKIの唇が僅かに動いたような気がした。
高宮はYUKIの口元に耳を近づけた。
「由紀子さんっ!高宮ですっ!分かりますか?」
「た、高宮さん……」
YUKIはうわ言のように呟いた。
「はいっ!高宮ですっ!」
その時、遠くの方から救急車のサイレン音が響いてきた。
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