22 めぐり逢い(愛)

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22 めぐり逢い(愛)

 時刻は午前9時を少し回ったところ……  う、ううん……  な、なに?  頭がズキン、ズキンと脈を打つように痛む。  痛っ!  閉じているまぶたには強めの光が当たっている。  私はゆっくりと瞼を開けた。  その瞬間、目の前がまばゆい光で溢れた。  うわっ、まぶしい……  たまらず、反射的に瞼を閉じてしまった。  もう一度、目を細めて、光に目を慣らしながら瞼を開けた。  な、何?これ? 「…………  ゴホッ!  …………」  声が出ない。  どうして?  光に慣れた目でよく見ると、ベッドに横たわっている私の口にチューブのようなものが繋がっている。  そして、そのチューブの先は私が横たわっているベッドの枕元にある機械に繋がっていた。  それが分かった瞬間、声が出せない私は、パニックになって起き上がろうとした。  すると、腕や指先にも透明なチューブや色とりどりの線が繋がっていることが分かった。  それでも、自分の置かれている状況がのみ込めず、怖くなった私は手足をバタつかせて暴れた。 「YUKIちゃんっ!大丈夫よっ!落ち着いてっ!」  強い力で押さえ付けられた。 「気が付きましたっ!  早く来てくださいっ!」  インターフォンで慌てたように叫んでいる。  その声……聞き覚えのあるその声……  ラウーラさんだ。  ラウーラさん、ここはどこ? 「YUKIちゃん、安心してっ!  ここは病院よ。大丈夫。」  私の疑問に答えてくれるようにラウーラさんが言った。 「患者さん、目を覚ましたんですか?」  白衣を着た40代くらいの女性の看護師さんが、私の傍らに来て、私の顔を覗き込んだ。 「はい。ついさっき目を覚ましました。」  ラウーラさんが興奮したように答えた。  看護師さんは私の肩に優しく手を置いて話しかけてきた。 「真行寺さん、聞こえますか?  大丈夫です。落ち着いてください。  何の問題もありません。」  看護師さんの力強い声に落ち着きを取り戻した私は、看護師さんの目を見て頷いた。  看護師さんは、私が聞こえていることを確認すると、話を続けた。 「ここは病院です。病院のICUです。  私は看護師の朝倉といいます。  あなたは頭に怪我をされていたので、この病院で手当てをしました。  病院に運ばれてきた時には意識が無かったので、呼吸を助けるために喉に管を入れています。  そのために話をすることが出来ません。  いま、担当の先生が来ますので、楽にして待っていてください。」  私はもう一度頷いた。  でも、私、頭に怪我したの?  ……何で?  看護師さんは、チューブを固定している私の口元の絆創膏を剥がした。  その時、私よりも少し年上の感じの30代くらいの男性のドクターが治療室に入ってきた。 「真行寺さん。気が付きましたか?  真行寺さんを担当している、医師の仲元といいます。  真行寺さんは頭部に深い裂傷があったので、12針縫合しました。  そのために髪の毛を剃りました。」  えっ?髪の毛?  私は、腕に点滴のチューブが付いていることも忘れて、慌てて自分の頭に手を持って行った。  そのせいで、点滴スタンドが倒れそうになった。 「あっ、危ないっ!」  看護師さんが倒れそうになった点滴スタンドを咄嗟に押さえた。  すみません……  声の出せない私は、瞼をゆっくり閉じることで、目で謝りながらも、そっと頭を触った。  本当だ……ネットのようなものを被っている私の頭は、絶望的なくらいに髪が無かった。  もしかして、坊主頭?  私の記憶では、生まれてこの方、坊主頭になったことがない……  でも、髪は時間が経てば延びてくるし、自分から進んで髪を剃る予定も無かったから、いい経験かもね……  そう思わないとやってられない。  ドクターは説明を続けた。 「その他にも、身体の数か所に打撲がありました。  お話が出来るように、呼吸を助けている管を今から取ります。  ゆっくりと呼吸していてください。」  私は頷いた。  でも、ちょっと緊張する……  ドクターは、私の枕元にあるモニターの状況を確認すると、私の呼吸のタイミングを見計らって、ゆっくりと管を引き抜いた。 「げほっ、ごほっごほっ!」  私は、管を抜く時に、えずいてしまった。 「大丈夫ですか?」  看護師さんが私の口の周りを優しく拭いてくれた。 「あ、ありがとうございます。」  あ、声が出た。私は自分の声を聞いて、ちょっぴり感動した。 「怪我が治って体力が回復するには、もう少し時間が掛かると思います。  それまでは、安静にしていてください。」  ドクターは微笑むと看護師さんと共に部屋から出て行った。  2人が出て行った後、ラウーラさんが口を開いた。 「YUKIちゃん、助かって本当によかったわ。  私のせいでこんなことになってしまって……ごめんなさい。」  ラウーラさんが頭を下げた。 「いえ、そんなことないです。」  そう言ったものの、私は、記憶が曖昧で何がどうなっているのか理解できていなかった。  ラウーラさん、何で謝っているんだろう?  私、どうして病院にいるんだろう?  どうして、頭に怪我したんだろう? 「ラウーラさん、私、どうしたんでしょう?」 「覚えていない?どの辺から?」 「どの辺?  ……どの辺だろう。  私、この病院にどれ位いるんですか?」 「3日。」 「3日もいるんですか……  ここはどこにある病院ですか?」 「ここは高崎の医療センターよ。群馬県。」 「高崎ですか……」  ……ああ、思い出した。  ラウーラさんと一緒に下仁田に行って……あの事務所にミンを探しにいって……  私たちは、捕まって、拘束された。  地下に祭壇があって、そこに高宮さんが……  高宮さんが私たちを助けようとして……  高宮さんは? 「ラウーラさん、高宮さんはどうなりました?」 「あ、YUKIちゃん、思い出した?」 「……はい。  何となく……  それで、高宮さんは?」 「高宮さん?刑事の?」 「はい、そうです。」 「YUKIちゃんが目覚める、ほんの少し前までここにいたのよ。」 「えっ?そうだったんですか?  高宮さんもラウーラさんも無事なんですか?」 「ええ。  私も刑事さんも大丈夫よ。  あの刑事さん、ファイサルからYUKIちゃんを救い出してくれて……  YUKIちゃんのことをすごく心配していたわ。  仕事で呼ばれたみたいで出て行ったけど、また戻るって言っていた。」 「ここに居てくれたんですか……」 「なんでも、容疑者の1人が捕まる前に行方をくらましたらしいから。」 「そうなんですか。なんか怖いですね。」 「だから、この部屋の入り口にも警察官が見張っているわ。  私がどこかに行く時にも、念のため警察官が警護でついて来てくれるの。」 「でも、2人が無事でよかったです。」 「私こそ、YUKIちゃんが助かって本当によかったわ。」 「ありがとうございます。」  ………………そうだ。段々と記憶が蘇ってきた。 「私、ファイサルに連れられて……あの地下室から外に連れて行かれて……  ファイサルが車で逃げようとして、私も助手席に乗せられて……」 「思い出してきた?」 「……はい。  でも、その後の記憶がなくて……」 「そうなの?  多分、その後に刑事さんがYUKIちゃんを車から助け出したのね。」 「そうですか……」 「でも、よかったわ、本当に。」 「ファイサルはどうなったんですか?」 「刑事さんの話では、亡くなったみたいよ。」 「亡くなった?そうなんですか。」 「ミンは……ミンはどうしているんですか?」 「ミンはファイサルのせいで麻薬中毒にされて、都内の別の病院に入院しているわ。」 「それじゃあ、スアンも?」 「付き添っているわ。  でも、YUKIちゃんの事が気になって、ここにも来たのよ。」 「私のことは気にしなくていいのに。」 「そうは言っても、スアンとしては気になるんでしょ。  YUKIちゃんに色々と付き合ってもらったから。」 「ミンが見つかっただけで十分ですよ。」 「YUKIちゃんなら、そう言うと思ったわ。」 「……はい。  ラウーラさん、なんか私、眠たくなってきました。」 「眠って休んだ方がいいわ。その方が回復が早い。」 「なんか……すみません……」  私は、ラウーラさんに申し訳ないと思ったけど、凄まじい睡魔に勝てそうもなくって、ラウーラさんの言葉に甘えて、すぐに眠ってしまった。  ◇  都内某精神医療病院  同時刻  スアンはミンの入院手続きを終えて、担当医師と面談をしていた。 「これからが彼にとって地獄の苦しみです。」 「地獄、ですか?」 「はい。禁断症状との戦いです。  立ち直れるかは彼の意志にかかっています。」 「そうなんですか。」 「はい。  スアンさんのサポートも大切です。  相当の覚悟が必要です。  彼のご家族でなくとも、大丈夫ですか?」 「はい、大丈夫です。」  スアンは迷いなく頷いた。 「ミンはあの個室に入ったままですか?」 「体調が良ければ、外に出て気分転換をしたり出来ます。  この病院は薬を抜くことが目的です。  そのために出来る限りのことをサポートします。  我々とスアンさんが協力して、ミンさんを救いましょう。」 「よろしくお願いします。」  スアンは、ミンを立ち直らせる決意を新たにした。  面談を終えたスアンは、ミンがいる個室に戻って、ドア越しにミンの姿を確認した。  ミンはベッドに横になって休んでいるようだった。  暫くミンを見守った後、ドアの所に立っている警察官に話しかけた。 「ご苦労様です。私、今日はこれで帰ります。」 「了解しました。お気をつけて。」 「ありがとうございます。  でも、ミンのところは、警護とか大丈夫だと思うんですけど。  セキュリティの高そうな病院なので。」 「すみません。私が判断していることではありませんので……」 「そうですよね。  よろしくお願いします。」  ◇  群馬県警本部内の取調室  同時刻  高宮は「下仁田バラバラ殺人及びアヘン・ヘロイン密売事件合同捜査本部」となっている群馬県警の取調室に入った。  ドアの近くの机には筆記係の若い男性の係官がすでに座っていた。  そして、部屋の中央にある取調用の机には被疑者が座っていた。  高宮の姿を見上げた被疑者は口を開いた。 「まだ俺に訊きたいことがあるの?」  高宮はイスに掛けながら答えた。 「筧さん、あなたの意見を訊きたい。」 「俺の意見?」 「うん。  ユンが消えた。  事務所でのあの時、あなたはユンを押し倒して、僕がファイサルの後を追えるように手を貸してくれた。」 「確かに。」 「その後、ユンはどうしたんだ?」 「どうだったかな……」  筧は上を向いて記憶を手繰り寄せているようだった。 「覚えていないのか?」 「あの混乱した地下室の中だからな……  俺は、ユンにタックルして押し倒すと、そのまま押さえ付けていた。  あんたがファイサルを追って祭壇の後ろに消えるのを見届けるまで。  その後だよな……ええっと、あっ、そうだ……」 「思い出したか?」  高宮は身を乗り出した。 「ああ。  俺が祭壇の方に気を取られていると、多分ユンは、その隙をついて俺から逃げ出した。」 「そして、どこへ行ったか分かるか?」 「俺は、ユンを追わないで……追う気も無かったけど、ラウーラと言ったな、あの女性を介抱しに行った。捕まえて監禁したことを詫びるためにも。」 「それで、ユンは?」 「ユンは、確か信者と警官がもみ合っている階段の方に行ったんじゃないかな。」 「階段を使って上に行くことは、出来ないんじゃないか?  係官と信者たちがもみ合っていたんだから。」 「……そうだよな……あっ、そうだ。こっちに戻って来て、今度は祭壇の裏に行ったはずだ。  そのまま、姿を現わしていない。」 「あの裏の部屋のハシゴで地上に出たということかな?」  高宮が念を押した。 「そうだ。そのはずだ。」 「その時、ハシゴのある部屋の向かいにある冷凍庫に寄る可能性はあるかな?」 「冷凍庫に寄る可能性?」 「うん。生贄になった信者の左腕も消えている。  僕が冷凍庫の中を確認した時には確かにあった。  ところが、後になって係員が中を確認すると、首と胴体はあったが、左腕は無かった。  独りでに消え去る訳はないから、持ち出した人間がいるはずだ。」 「その持ち出した奴がユンじゃないかって話か?」 「ああ。その可能性はあるかな?」 「可能性は大だな。  あの時、祭壇裏に行ったのは、あんた以外ではユンだけだと思うし、ユンはファイサルの教えを100パー信じている。  ファイサルの右腕だ。左腕の話をしているのに、なんだか紛らわしいけど……  結界を完成させるために左腕を持ち出した可能性は大いにあると思う。」 「そうすると、ユンは結界を完成させるために佐多岬に向かったということか?」 「……うーーん。」  筧は目を閉じて暫く考え込んだ。  高宮は、筧が沈思黙考している間、邪魔することなくじっと待っていた。  筧がおもむろに口を開いた。 「その線もあるけど……別の可能性があるかもな……」 「別の可能性?」 「うん。  もし、ユンが、ファイサルが死んだ事実を知ったとしたら、その恨みはミンの彼女のスアンに向けられると思う。  ファイサルはスアンのことを嫌っていたし、スアンが捜索願を出したせいで事務所が警察に目を付けられた。  順調に進んでいた、ヤンガンを作るというファイサルの計画は、ミンを同志に加えることで一つの区切りとなったはずなのに、そこに割って入るようにスアンがいた。  ファイサルも最初の内はスアンのことを軽く見ていたというか、たいして気に掛けていなかったんだと思う。  それが、ミンがいざ日本に来ると、スアンが目の上のたん瘤になった。  スアンの存在が邪魔でしょうがなかった。  単に金で雇われただけの俺からしても、そう感じたよ。」 「ちょっと待ってくれっ!  それじゃあ、ユンがスアンを襲うというのか?」 「その可能性もあるんじゃないかということだよ。  ヤンガン人のユンが何を考えているかなんて、分かりっこないじゃないか。  知らんよ、俺はっ!」  高宮は何も答えずに取調室を飛び出した。 「おいっ!これで終わりか?  俺の事、情状酌量してくれよっ!  捜査に協力してんだからなっ!」  筧は高宮の背中に向かって叫んだ。 「あっ!高宮刑事っ?」  後ろの方で筆記係の係官も叫んだ。  ◇  高宮は捜査本部となっている会議室に向かった。  まずいぞっ!  スアンさんには警護を付けていないはずだ。  あの場にいなかったし、組織とは無関係だったから……  上の指示を振り切ってでも警護を付けるべきだった。  高宮は会議室のドアを勢いよく開け放った。 「警護の責任者はっ?」  会議室にいた捜査員が一斉に高宮を見た。 「私ですが、何か?」  捜査員の1人が手を挙げた。 「すみませんっ!確認ですが、グエン・スアンには警護が付いていますか?」 「えーっと、付いていないですね。彼氏のミンには付いていますが……」  その捜査員は資料をめくりながら答えた。 「了解ですっ!」  高宮は、会議室を出ると、スアンに電話を架けた。  頼むっ!電話に出てくれっ!  呼出音が鳴っている時間がとてつもなく長く感じた。 「……はい、スアンです。」  高宮はホッとして胸を撫で下ろした。 「警視庁の高宮です。  スアンさん、今どこにいますか?1人ですか?」 「今ですか?高崎に向かっています。」 「電車ですか?」 「はい。なので、話せません。一度切ります。」  スアンは電話を切った。  ダメだ。メッセージにしよう。  高宮はスマホのメッセージのアプリを開いた。  電車に乗っている間は、襲われる可能性が少ないはずだ。ユンの逃げ道が無いからな。  高宮はメッセージを送信した。 【先ほど電話してすみませんでした。  着くのは高崎駅ですよね?  到着予定は何時ですか?】  少し間があって、返信があった。 【あと30分位で高崎駅に到着します。】  高宮は再びメッセージを送信した。 【高崎に来る目的は、真行寺さんが入院している医療センターに行くことですか?】 【そうです。医療センターに行く予定です。】 【私も行きますので、高崎駅の西口改札のところで待ち合わせしませんか?】 【はい、分かりました。】  高宮は、スマホを仕舞うと、車に飛び乗った。  ユンに狙われているかも知れないなんて、不安を煽らない方がいいよな。  俺の取り越し苦労かも知れないし……  ◇  スアンは高崎線に乗って高崎駅に向かっていた。  これからのミンの治療のことを考えると不安で一杯だった。  でも、生きていてくれた。  それだけでも神様に感謝。  そして、危険な目に遭ってまで助けてくれたYUKIさんにも会ってお礼を言いたい。  スアンがそんなことを考えながら電車に乗っているとスマホの着信音が鳴った。  ディスプレイに表示された相手は高宮だった。  スアンは人がいないデッキの方に移動しながら電話に出た。 「はい、スアンです。」 「警視庁の高宮です。  スアンさん、今どこにいますか?1人ですか?」  スアンは高宮の切羽詰まったような問い掛けにちょっと驚いた。 「今ですか?高崎に向かっています。」 「電車ですか?」 「はい。なので、話せません。一度切ります。」  スアンは、周りを気にしながら電話を切ると、座っていた席に戻った。  席に戻って程無く、メッセージを受信した。  高宮からのメッセージだ。 【先ほど電話してすみませんでした。  着くのは高崎駅ですよね?  到着予定は何時ですか?】  スアンはメッセージを送信した。 【あと30分位で高崎駅に到着します。】  高宮から再びメッセージを受信した。 【高崎に来る目的は、真行寺さんが入院している医療センターに行くことですか?】 【そうです。医療センターに行く予定です。】 【私も行きますので、高崎駅の西口改札のところで待ち合わせしませんか?】 【はい、分かりました。】  でも、駅から医療センターまではそんなに離れていないんだから、待合せなくてもいいんだけどな……  何かあるのかな?  ◇  スアンが乗っている電車は定刻で高崎駅に着いた。  スアンは、電車を降りると、人波に合わせるように西口改札に向かってコンコースを歩いていた。  そのスアンの後ろを、等間隔を保ったまま歩く男がいた。  グレーのキャップを深く被り、黒のサングラスに大きめのマスクを付けている。  顔つきや表情は全く分からない。  そして、着ているジャケットの内側に右手を入れたまま、不自然な体勢で歩いていた。  人混みで混雑する中、スアンは、背後を付いて歩くその男に全く気づいていない。  スアンの心はすでに医療センターに向いていた。  他の通行人が少なくなったところで、その男は足早にスアンの背後に近づいて行った。  近づきながら、ジャケットの内側を何度も確認した。  駅構内の雑踏の中、スアンは、その男が、手が届くほどに距離を詰めたことに全く気付かないでいた。  その男は、ついにスアンの背後にぴったりと近づいた。  そして、通行人に見つからないように辺りに気を配りながら、ジャケットの内側から鈍く光るナイフを取り出すと、スアンの腰の辺りに軽く突き立てた。 『ナイフがお前を狙っている。腰に当たっているの、分かるな?  声を出したり、動いたりしたら、思いっ切り刺す。  刺されたら、どうなるか分かるか?  焼けるような、もの凄い痛さだ。  冗談で言っているんじゃない。分かったな?』  スアンは驚きと恐怖のあまり、目を皿のようにして固まった。  これがもし日本人だったら、悪い冗談だと感じたかもしれない。  ところが、ヤンガン語で話しかけてきた。  冗談ではないらしい……本気のようだ。 『お、お願いです……助けてください。』 『お前、グエン・スアンだな?』 『そ、そうです。  あなたは誰ですか?』 『俺はユンだ。よく知らないだろう?』 『は、はい。』 『俺は、お前のことをよく知っている。  悪女のお前をよく知っている。  それでいい。  このままゆっくり歩いて、あの柱の陰に行け。』 『お願い……許して……』  スアンの黒くつぶらな瞳からは、恐怖のせいで涙が溢れた。 『いいから歩け。』 『……いやです。歩きません。  放してください……死にたくない……』  スアンは、膝が震えて身体に力が入らず、その場に崩れ落ちそうになった。 『何をやっている?人に気付かれるだろ?ちゃんと立て。』  ユンはスアンの腕を掴んで倒れないように支えた。  そして、力ずくで歩かせようとした。 『い、いやっ!!!』  パニックになったスアンは、突然大声で叫んだ。  ユンは、まずいと思ったのか、その場でスアンの喉元にナイフを突き刺そうとして、握りしめたナイフを振り上げた。 『ファイサルの仇だっ!死ねっ!』  ユンはそう叫ぶと、スアンの喉元めがけてナイフを振り下ろした。 『きゃっ!!!』  スアンは目を閉じた。  …………  ……しかし、ユンのナイフが刺さったような感覚はなかった。  なに?どうしたの?  スアンは恐る恐る目を開けた。  すると、ナイフの切っ先はスアンの喉元ギリギリのところで止まっていた。 『ゔっ!』  何が起きたのか、すぐには理解できなかった……  よく見ると、ナイフを持ったユンの手首を誰かの手が掴んで、ユンの手の自由を奪っていた。 『えっ?』  スアンはその手から顔の方に視線を移した。  ……高宮だった。 「スアン、大丈夫かっ?!」  高宮は叫ぶと同時に、ユンの手を掴んだまま、足払いをしてユンを倒した。  そのまま、ユンの動きを封じて押さえ付けると、手錠をかけた。 「14時20分、殺人未遂の現行犯だっ!」 「スアンさん、怪我はない?」  逮捕したユンを同行の警察官に引き渡した高宮が優しい声で訊いた。 「はい……何ともありません。  ありがとうございます。」 「怖い思いをさせてゴメンね。  改札口にいたんだけど、もっと早く気付くべきだった。」 「大丈夫です……」 「病院に行って診てもらおう。」 「いえ。先にYUKIさんに会いたいです。  それに、これから行くとこ、病院ですよね?」 「そうだけど……」 「私、大丈夫です。こんなこと、すぐに忘れちゃいますから。」  スアンは懸命に笑顔を作った。 「お願いします。私、YUKIさんに会って元気な姿を確認したいんです。」 「分かった。それじゃあ、医療センターに行こう。  でも、そこで君もしっかり診察してもらうんだよ。」 「はい、そうします。」 「真行寺さん、元気になったかな……」  高宮はこの事件に触れないように笑顔でスアンに言った。 「元気になって欲しいです……」  死の淵から生還したスアンの心臓は、まだバクバクと暴れて回っていた。  ◇  医療センターに着いたスアンと高宮は真っ直ぐICUに行った。  高宮は、ICUを警護している警察官に小さく敬礼すると、スアンを先に部屋の中に通した。  スアンが緊張しながら室内に入ると、ちょうどYUKIはベッドに起き上がっていた。  ◇  私が入院しているICUの部屋のドアが開いたかと思うと、そこにスアンが立っていた。  スアンは私と目が合うと声を震わせながら、「YUKIさん、気が付いたんですねっ!」と言って、駆け寄ってきた。  そして、私を思いっきりハグすると、「よかったぁ!」と言って泣き出した。 「あ、痛っ……」  私は、傷に触って、思わず声を上げてしまった。 「あっ!ごめんなさいっ!怪我しているのに……」  スアンは反射的に飛び退いて頭を下げた。 「平気、平気。  心配かけちゃったみたいね、スアン。  私は大丈夫。」  私は、手を取ってスアンを引き寄せると、しっかりと抱き締めた。    後ろにいた高宮さんは、優しく微笑んで、スアンと私を見守っていた。  この時の私は、スアンが高崎の駅でユンに襲われた事実を知らなかった。  あとから高宮さんに事の次第を聞いた。  ……とても驚いた。  スアンは、私なんかよりも精神的に酷い目に遭った直後なのに、そんな素振りを微塵も見せずに私のことを心配してくれた。  本当に強くて優しい女性。  年下なのに、人として憧れてしまう。  そんなスアンが寄り添っているんだから、ミンはきっと大丈夫……  スアンとミンは、大丈夫……
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