9 希望の農園

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9 希望の農園

 私とスアンはアパートの敷地の手前で足を止めた。  意識しなかったけど、敷地内に足を踏み入れることを、一瞬、躊躇した。  取り敢えず、その場から分かる範囲で室内の様子をうかがってみたものの、何も分からない……そりゃそうよね。  私とスアンは周りを警戒しながらゆっくりとアパートに近づいて行った。  1階の3号室。  息を殺すようにして3号室のドアの前に立つと、そっと耳をドアに近づけた。  神経を尖らせて中の気配を探ってみたけど、物音一つしなかった。  ドアの横にあったキッチンの窓に顔を近づけて、中の様子を見ようとしたけど、曇りガラスの向こう側は薄暗くて、人の気配はなかった。 「スアン、チャイムを押してくれる?」 「あ、はい。分かりました。」  スアンは、ドアの横のチャイムを押してみた。 「…………?  スアン、押した?」 「はい、押しました。」  スアンはもう一度チャイムを押した。  ドア越しにチャイムの音が聞こえてこなかった。 「電源が切れているみたいです。」  スアンは、ドアに耳を近づけて、何度もチャイムを押しながら言った。  そして、ドアノブをガチャガチャと回していたけど、施錠されているようでドアは開かなかった。  私はキッチンの窓をノックしてみた。 「……中には誰もいなさそうね。」  私は窓に顔を近づけたまま言った。 「やっぱりですか……」  スアンは、ホッとしたような、ガッカリしたような、微妙な表情をしていた。 「ミン、どこにいるの?……」  スアンの口から言葉が漏れた。  確かに、このアパートにはミンもいないし、他の人も住んでいる気配がなかった。 「スアン、裏に回ってみましょう。リビングの方に。」 「あ、はい。」  私とスアンはアパートに沿って歩いて裏側に回った。  アパートの敷地は手入れがされていなくて、膝の上の辺りまで伸びている雑草が生い茂っていた。  雑草を避けながら大股で歩くと、3号室のバルコニーのところにたどり着いた。  私とスアンは、人目を気にしながら3号室のバルコニーによじ登ると、リビングの窓から中を覗こうとした。  しかし、運の悪いことに部屋のカーテンがぴったりと閉まっていて、中の様子が分からなかった。 「……ついてないわね。」  私はため息をついた。 「……はい。」  スアンもため息をついた。  私は少しやけを起こして、力任せにバルコニーの窓を引いてみた。  ガラッ!  窓は、いとも簡単に開いた。 「あれっ?鍵、掛かっていなかったんだ……」 「そうなんですか?」  スアンは驚いて私を見つめた。 「うん。……入ってみる?」 「は、はい。」  私とスアンは緊張がマックスになった。  なんてったって、不法侵入しようとしているんだから……  心拍数が一気に跳ね上がって、心臓の鼓動が服の上からでも分かりそうだった。 「じゃ、入るね?」  私の声はうわずっていた。  スアンは無言でうなずいた。  私は、勇気を振り絞って、来る者を拒むように閉まっていたカーテンを少しだけ開けた。  そして、取り敢えず、その隙間から部屋の中を怖々と覗いてみた。  カーテンの間から光が差し込んだ部屋の中は、家具や荷物が予想以上に少なくガランとしていて、しんと静まり返っていた。  中の空気は淀んでいるようでかび臭く、何日も人が住んでいないことは確かなようだ。  私の背後から、スアンも中を覗いていた。 「……誰も居ないみたい。」  私は、覚悟を決めて、カーテンを端まで引くと、スニーカーを脱いでリビングの中に慎重に足を踏み入れた。  すぐにスアンも私に続いて入ってきた。  私たちが入ったせいで部屋の中の埃が舞い上がり、陽の光に照らされて妙に輝いていた。 「どう、スアン?夏に来た時にこの部屋に入ったことがあるんでしょ?その時のまま?」 「……はい、そうですね。あまり変わっていないような気がします。」 「家具とか、こんなに少なかった?」 「夏に来た時は、移住してきたばかりで身の回りの物しか無かったんですけど、その時と同じような感じです。」 「家具とか、買わなかったのかしら……」 「そうかも知れません。来日して、ひと月くらいでミンの態度が変わってしまって……」 「そっかぁ……」  私はリビングの中を見回したが、特に荒らされている様子もなかった。  ただ、ひとつ気が付いたことは、室内にほんの微かにアンモニアのような臭いが漂っていたことだ。  スアンは特に気づいていないようだった。  アンモニアのような臭いと言っても、トイレのそれとは違っている。  それを確かめるために、一応、トイレの中を確認した。  ……やはり、トイレの中の臭いとは違っていた。  室内にアンモニア臭が漂っている原因は分からない。キッチンにも原因らしいものは無かった。  何故?  普通はしない臭いがこのリビングには漂っている。  私が室内の臭いに捕らわれていると、スアンはリビングの隣にある寝室のドアを開こうとしていた。 「大丈夫っ!?」  私はスアンに叫んだ。 「えっ?」  スアンは驚いて手を止めると私の方に振り向いた。 「あ、ごめん。大きな声出して。」 「ちょっとビックリしましたけど、大丈夫です。」 「慎重にね。」 「はい、分かりました。」  私は、ふと寝室にファイサルの遺体があるような気がして、咄嗟に声を上げてしまった。  子供の頃、アパートで母の遺体を見つけた時の体験がトラウマになっている。  私は、スアンがドアを開く様子を、固唾をのんで見守っていた  スアンは寝室のドアノブをゆっくりと回した。  カチャッ  苦も無く寝室のドアが開いた。  私は一瞬反射的に目を閉じてしまった。  スアンは、ドアを開け放つと、その場にとどまって寝室の中を確認していた。 「スアン?」 「はい。」 「寝室の中はどう?何かある?」 「……何もありません。誰も居ません。」  スアンはそう言いながら寝室の中に入って行った。 「そう。」  私も慌ててスアンに続いた。  ファイサルの遺体があるような気がしていたのは、私の思い過ごしだったようだ。  寝室の中に入ると、そこには無造作に布団が敷かれっぱなしになっていた。  私とスアンは、一応、布団を剥ぐって何も無いことを確認した。  ……とにかく、安心。何も無くて……  暫くミンの居場所の手掛かりをあれこれと探していたが、室内の物が少なく生活感がないために手掛かりは掴めなかった。 「これ以上探しても手掛かりは無さそうね?」  私はスアンに訊いた。 「はい。衣類とかはそれなりに残っているようですし、荷物をまとめて出て行ったようには思えません。  ミンはスマホとか財布とか身の回りのものだけを持っていなくなったようです。」  傷心のスアンは、それでも的確に部屋の状況を分析していた。  ひたむきにミンを探そうとするスアンの姿に接すると、胸が締め付けられる思いがする……  このアパートにミンがいて、状況が好転すると踏んでいた私の勘は見事に外れた。  最近の私は、どうも勘が働かない。 「これから農園の方に行きたいです。一緒に行ってもらってもいいですか?」 「当然。行きましょ。」  私たちは、入ってきたバルコニーから外に出ると、アパートを後にしてレンタカーに乗った。  私はナビに目的地をセットするとゆっくり車を出した。  農園は市街地から離れた山の麓にあるようだ。 「結構山の方に行ったところです。」  私の思いを察したようにスアンが言った。 「そうみたいね。  この前行った時には誰も居なかったのね?」 「はい。ノックしても応答がありませんでした。  裏の畑も荒れ果てていて、どうなっているのかって思って……」 「今はどうなっているんだろう……」 「もうすぐ分かると思います。」  スアンの言葉通り、農園の建物が姿を現わした。  その建物は黒壁に赤い屋根の背の高い建物だった。  正面の入り口の上には「希望の農園」と書かれた看板が掛かっていた。  「希望の農園」と謳っている割には、人を寄せ付けないような雰囲気が漂っている。  なんで?  その理由はすぐに分かった。  建物にあるべき窓が無かった。  単なる倉庫のように見える。人が使う事務所のようには見えない。 「あれがそうね。」  私は敷地に面した通りに車を止めた。  こんな山の麓なのに、建物の前には止まっている車もなく、スクーターや自転車すら止まっていなかった。  ……なんか、アパートと同じように人の気配が感じられない。  私とスアンは車を降りると正面の入り口に向かった。  そして、私は入り口の前に立つとチャイムを探した。 「あれっ?」 「チャイム、無いんです。」  察したスアンが教えてくれた。 「そうなんだ。大きな事務所みたいなのに……」  私は重たそうなドアを3回ノックした。  コン、コン、コン  …………  10秒くらい、建物の中の反応を待ってみたけど、何の反応もなかった。  今度は強めに6、7回ノックしてみた。  ゴン、ゴン、ゴン、ゴン、ゴン、ゴン……  …………  また無反応。ドアの向こう側に人の気配は感じられない。  スアンは私の隣でじっと待っている。  こうなると、私は意地になって、ドアを思いっきり叩こうとして、拳を振り上げた。  そして、その振り上げた拳でドアを叩こうとした瞬間、中から人の声が聞こえた。 「はい。どちら様?」  ドアの向こう側から大人の男の低い声が響いてきた。  私とスアンはその声に驚いて、その場で少し飛び上がった。 「あ、あの、すみません。  ……私、YUKIといいます。こちらの農園でミンという実習生が働いていると思うんですけど、今どこにいるのか、ご存知でしょうか?」 「誰?ミン?分からないなぁ。今は実習生を受け入れていないしね。うちじゃないんじゃないの?」  その男はぶっきらぼうに言った。 「ミンと一緒にファイサルという人も働いていた筈なんですけど……」 「ファイサル?誰それ?  あんた、何か勘違いしてるよ。  悪いけど、もう帰ってくれる?」  我慢し切れなくなったのか、スアンが口を開いた。 「ミンは、今年の夏、確かにここに来ました。間違いありません。私も来たんですから。」 「ん?別の人?」 「私、スアンといいます。ミンの友達です。同じ国の……」 「ふーん。悪いけど、俺には分からないし、ミンなんて人、ここにはいないから。」 「そんな訳ないでしょっ!ミンに会わせてっ!」  スアンは感情が爆発した。 「知らないよ。」 「ここにいるんでしょっ!ミンに会わせなさいよっ!」  スアンの声は一段と大きくなった。 「しつこいなぁ。分からないって言っているだろっ!  突然やって来て、ドアの前で騒ぐなよっ!  警察呼ぶぞっ!」 「いいわよっ!呼びなさいよっ!」  スアンは引かない。全身が怒りに支配されているようだ。肩で荒く息をしている。 「分かる人に代わって下さい。」  私は、スアンの肩に手を置くと、努めて冷静に言った。  ここで話がこじれたら、ミンの捜索がやり難くなるのは必至。 「ここには俺だけだよ。」  ドアの向こうの男も落ち着いたトーンに戻った。 「そうですか。」  私はそう思っていなくてもそう言うしかなかった。  ここに人がいることが分かっただけでも大収穫だ。  今、ドアの向こうの男と敵対することは得策ではない。  仕切り直して、また訪問すればいい…… 「突然、すみませんでした。お手数をおかけしました。」  私はスアンの肩を抱いて車に戻ろうとした。  その時、スアンは、私の手を勢いよく振りほどくと、ドアに詰め寄った。 「まだ話は……」  私は慌ててスアンの口を手で塞いで半ば強引にスアンをドアから引き離した。 「止めないでください、YUKIさんっ!私、まだ聞きたいことを聞いていませんっ!」 「スアンの気持ちはすごく分かるわ。痛いくらいに分かる。  でも、今日はここまでにしましょう。  感情的になってしまったら、何もいいことはない。  聞きたいことも聞けなくなるわよっ!」  私は思わず強い口調になってしまった。  スアンは、そのみずみずしい唇を震わせて、ひと粒、またひと粒と涙をこぼした。 「YUKIさん、私……」 「大丈夫。何も言わないで、スアン。」 「……はい。」  スアンは聞こえるか聞こえないかくらいの声で答えた。  私は、ふと、ドアの向こう側にまだ男がいるのか気になって、ドアに近寄って顔を近づけた。  その時、微かな臭いを感じた。  ほかの事に気を取られていたら気付かないくらいの僅かな臭い……  そう……アパートのリビングでも嗅いだ、アンモニアのような臭い。  一体、何なの? 「YUKIさん、何かありました?」  私が険しい表情でもしていたのか、スアンが心配そうに訊いてきた。 「えっ?ううん……何でもない。」  アパートとこの事務所で嗅いだ臭いのことは、自分でも整理がついていなくて、まだスアンには言わずにいた。  私は、スアンに駆け寄ると、振り向いて事務所を見上げた。  ……あれっ?何、あれ?  私が見上げた事務所の屋根の辺りの空が一瞬色付いて見えた。  どういうこと?  この事務所の運命?そんな訳ないよね。  天候のせいかな?それとも見間違い?  私は、よく目を凝らして、もう一度屋根と空の境界の辺りを観察した。  すると、屋根のくすんだ赤色と空の抜けるような鮮やかな水色の間に横たわるように、禍々しく黒い空気の層のようなものが蜃気楼のように揺らめいて見えた。  ここから離れているけど、この見え方は運命の光彩に間違いない。  でも、人以外に光彩が見えるなんて、今まで一度も経験したことがない……  何を意味しているのだろう?  この事務所、私に何かを伝えたいのかな。  生きている訳じゃないのに、そんなことってある?  意味不明。理解不能。  もし、お母さんが生きていたなら、あの光彩が何か分かったのかな?  残念ながら、今の私には分からない。  何なんだろう、屋根に現れた不気味な黒い光彩…… 「YUKIさん?」  スアンは、怪訝そうな表情をしながら、私の視線を追って事務所の屋根の方を見上げた。 「上の方に何かありました?」 「うん……ちょっとね……  あの赤い屋根、すぐ上のところが黒ずんで見えない?」 「屋根の上ですか?黒い?」  スアンは目を細めて屋根を凝視していた。 「どう?」 「いえ、青い空があるだけです。  他には何も……黒くありません。」 「そうか……」  やはり、スアンには見えていない。  あれは運命の光彩。確定。 「黒いもの、YUKIさんには見えているんですか?  それって、YUKIさんの特別な能力で見えているってことですか?」 「そうみたい……」 「ちょっと農場の方にも行ってみます。  何も作っていないはずです。」  スアンはすぐに歩きだそうとしていた。 「スアン、待って。  事務所の人が私たちを監視しているかも知れないわ。」  私はスアンの腕を掴んで制した。  そして、事務所の至る所に付いている監視カメラを目立たないように指差して、スアンに伝えた。 「あっ……」  スアンは口元に手を当てて、1、2歩後ずさりした。  ここの事務所に今日で2回来ているスアンだったが、前回も今回も精神的に昂っている状態だったせいで、カメラに気付いていなかった。 「希望の農園」って一体何? 「スアン、今日はもう帰りましょう。  思い付きで行動していたら、取り返しのつかないことになる気がする。  一度、東京に戻って、分かった事実を整理しましょう。」  私とスアンは、様々な疑問や謎を抱えて下仁田の地を後にした。
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