ノアの幸福論

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ノアの幸福論

「なあ、トム。儂はここ最近の人類を見ていて、非常に嘆かわしいと思っているのだ」  既に主神を引退した父は、唐突にそんな話をした。彼の右手には真っ赤なワインがなみなみと注がれたグラス。また酔ってるのかな、と僕は顔を顰めつつ父の傍に近づいた。  案の定、父の顔は真っ赤であり、凄まじい酒の臭いがする。それに加えて衣服に沁みついた煙草の臭いがきつい。どっちももう少し控えてくれないかな、とは心の中だけで。悲しいかな、酒と煙草に溺れ捲っている神様は、何も僕の父だけではない。 「ここ近年の人類は、まさに堕落の極であると思わないか?神への信仰を忘れ、神をも恐れぬ高い建物を建て、我々の許可も得ずして空を飛ぶ乗り物を発明し。そして科学の発展と比例して増える戦争、増える自殺、大きくなる貧富の差……。かつての慎ましく穏やかな人々は、一体どこに行ってしまったのか」 「は、はあ」  慎ましく、ねえ。僕は思わず足元を見てしまう。この雲の下に、人間たちの世界が広がっている。父から主神の座を引き継いでからというもの、毎日のように人間の生活を観察している僕だったが――果たして父の言う“慎ましさ”とは何であるやら。  自殺が増えたというのは否定しないが。争いがあるのも貧富の差が大きいのも、もはや今更の話ではなかろうか。  恐らく焦点はそこではないのだろう。彼は、天国と神々の存在が忘れられていることに怒りを感じているのだ。人間たちが、神に頼まずとも自分達で願いを叶える力を身に着けつつあるせいで。 「このままでは、人類は自ら滅びの道を辿る。我々神の加護あってこそ、人類が発展してこられたということを忘れてはいかんのだ」  ゆえに、と父は。赤ら顔でにやりと笑うのだ。 「よその神の真似をしてみようか、という話が議会で持ち上がっているのだ。即ち……地上を洪水で洗い流してはどうか、とな」 「は……はあああああ!?」  何とんでもないことを言っちゃってるんだこの人は!?僕は目玉をひんむくことになった。  そんな僕らをよそに、すぐ近くでは親戚の神々の酔った笑い声が木霊する。とてもそんな、深刻な話を始めるような空気とは思えなかった。
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