いったいなんなんだ

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もう引き返せない。すでに一〇分くらいは過ぎたんじゃないだろうか。私は目の前のこの男を置い続けている。 いつもと同じように、会社へ行くために最寄り駅へと向かって歩いていた。どこからともなくドタドタと音が聞こえてきた。女性の大きな声が響いた。 「捕まえて!」 声の方を見ると女性は地面に倒れていた。地面に横たわるような形で鞄をお腹の下に敷くように押さえていた。その彼女の目の前にいたこの男、私と目があって、別の方向へ逃げようと走り出した。 「捕まえて!」なんて言われちゃったもんだから、条件反射というんだろうか、私はこの男を捕まえようとして走り出した。男の周りにいた人たちも、彼を捕まえようとした人が二、三人はいたんだろうか。でも男は人混みをすり抜けて、駅とは逆の方向へ、人のとおりが少ない方へ向かって走り出した。だから私は追いかけた。 男は明るいグレーのトレーナーに、ジーパンを履いていた。キャップ帽も目深にかぶっていた。おじいさんとぶつかりそうになってよけて、スーツ姿のサラリーマンに腕をつかまれそうになるのを交わして、女子高生とすれ違って走って行った。散歩に連れられている犬のリードに引っかかりそうになったのを飛び越えて、赤信号のところで追いつくことができるかと思ったけれど、すんでのところで青に変わってまた走って行かれた。 私は、自分でも驚いたけれど、結構スピードを出せていた。トートバッグタイプの通勤カバンを抱え、リクルートスーツみたいな膝丈くらいのスーツにローヒールパンプスを履いている割に、この男に追いつくのは難しいながらも約一〇分も走り続けているんだから、なかなかいいペースだ。息はきれてる。しょうがないよ。こんなに走ったのは何年ぶりだろう。 男がチラチラ背後の私の方を向いてる。気づくと住宅街であまり人通りがない…というか、ひと気のない閑静な住宅街まで来てしまった。私は自分の背後をチラリと見やったけれど、やっぱり!誰もついてきていない…。 男は立ち止まって私の方を向いた。私も恐怖を感じて立ち止まった。このとき、男と私の距離は一〇メートルくらいはあったろうか。 「なんでついてくるんだ。」 「だって、捕まえてって。」 「オレを捕まえるのか?なんのために?」 えーと…、なんでなんだっけ?本当にこの人だよね?あの倒れてたおばさんが捕まえてって言ってたの。 「駅前でおばさん倒したでしょう!?」 「はぁ?なんのことだよ!」 「じゃ、なんで逃げるのよ?」 「追いかけてくるからだろ!」 そうか。人は追いかけると逃げるのか。まぁ、私でもそうするかも。 私は駅の方へ走り出した。今度は男が私の後を追ってくるんじゃないかと思って。 でも、彼は私のことを追っては来なかった。
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