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続木を見送った芳江はまだ1/3ほど空いているホールの隅の席に座った。六本木エデンの本番はまだまだこれからなのだ。
「さすがですね」
突然声を掛けてきたのは同じくこの席で待機していた女性だった。知らない顔だ。
「新人?」
芳江が聞いた。
「やっぱり」
「何がやっぱり?」
「勘が鋭いって」
「誰がそんなこと。さっき加賀山さんが言ってたよ」
「あ、私今日から入店の杏奈です」
「もう決まったの?」
「ええ」
今時というのか、杏奈という娘は妙に馴れ馴れしい。
「杏奈は本名か・・・」
ぼそっと芳江が言う。杏奈はびっくりした顔をして芳江に問いかけてきた。
「なんで分かるんですか?」
でも芳江は答えられなかった。理屈ではないのだ。単にそう思っただけである。
「さあ」
「やっぱり。芳江さん、そういう人なんですね」
「だから何なのよ?」
ちょっと焦れたように芳江が言った。
すると杏奈が、
「巧みだなあって・・・。そうじゃないとやってけないですよね。こういうお仕事」
と諂う。
そこへ杏奈を採用した張本人の加賀山がやってきた。
「ちょうどいいや。杏奈も一緒に。芳江さん、20番へ行ってください」
「はい」
芳江は杏奈を伴ってホールの反対側の隅の席へ行った。一人客のようである。
杏奈は私服だ。OJTということか、芳江は思った。
加賀山によると杏奈は大学生で店の社長今田の遠縁に当たるという。水商売の経験はゼロだそうだ。
「いらっしゃいませ」
芳江が客の隣に座ろうとすると杏奈が脇からすり抜けるようにそこへ座ってしまった。
何、この子。社長の遠縁? だが今は客の前だ。芳江は仕方なく客の向かい側の丸椅子に腰掛ける。
低い椅子に掛けると膝が上がってドレスのスリットが床に垂れ下がる。芳江の白いふくらはぎが露わになった。
そして客が興奮する感覚。やだなあ、どうしてよ。まったく男ってやつは。だが、だからこの商売が成り立つ。そこも真実なのである。
芳江はポーチから名刺入れを取り出した。
「芳江と言います。宜しくお願いします」
言いながら名刺を一枚つまみ出す。と、その名刺を見て芳江は混乱した。名刺には、
『ね、やっぱりこっちで良かったでしょ? 杏奈』
と書いてあった。これはいったい・・・。いや、名刺入れなんかこの子に渡してない。どうやって? そしてどういう意味なの?
混乱しながらもベテラン芳江は流れるような手さばきで接客していく。時々杏奈をきっと睨んでみるが、杏奈は何も言わない。
やっぱりこっちで良かったって、このメモは何のマジックなのか。
客は上川と名乗り名刺を差し出した。GRパートナーズとカタカナの会社名。役職はCFOだそうだ。
それがどういう意味かは知らなかったが、芳江は上川がかなりの上客だろうと見当が付いた。が、ふくらはぎに欲情するって今時普通ではない。
そして、やや酒が入ると上川はとんでもないことを言い始めた。
「この会社ね、実は幽霊会社でね。社員らしい社員なんて数人しかいないのさ」
と上川。六本木ヒルズにある会社なのに、芳江は思った。
「え〜! おもしろ〜い!」
杏奈が素っ頓狂な声を上げて手を叩く。
「おもしろい? そうか、そうか」
上川の気もかなり緩んできている。酒の力は恐ろしい。芳江は改めてそう思った。
それにしても杏奈という子は、いったい。
「俺はな、財務と言うよりスカウトなんだよ」
と上川が言い出す。
「え〜! 加賀山さんと同じ〜!」
「杏奈ちゃん、加賀山さんとは違いますよ。あれはただの狸親爺」
芳江が杏奈に注意した。するとハイペースで飲んだ上川がとろんとした目で芳江を見る。
「一緒、一緒。客受けしそうな可愛い娘を見つけて声を掛ける。加賀山ちゃんは店で働かせるけど、俺たちは人材を募集している企業に売り込むというわけですよ」
上川という人はスカウトもやる加賀山を知っているのか?
「上川さん、おもしろ〜い!」
杏奈が囃し立てた。
やがて上川がトイレに立つ。
「杏奈さん、ご案内を」
芳江が言うと上川が、
「大丈夫。大丈夫。場所は分かってるから。待っててね」
そう言ってトイレの方へ消えていった。
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