2人が本棚に入れています
本棚に追加
雲一つない、冬晴れの日だった。忙しなく人の行き交う駅で待ち合わせをしたが、僕は千鶴さんをすぐに見つけることができた。涼やかな目元と、しゃんとした佇まいに、紗奏さんの……魚さんの面影がある。
「やまびこさん……ですね」
後頭部をポリ、と掻きながら「どうも」と頷く。嗚呼、何だかまともに彼女の目が見られない。僕は汗臭くないかを気にしながら、千鶴さんはスマホで近場の喫茶店を調べながら、あの夏とは違った緊張感で、歩幅を並べた。
緑を基調にした屋根の、小さな喫茶店。平日の中途半端な時間だからか、客足は疎らだ。子供がいたずらしたのか、角が欠けたテーブルを挟んで僕らは向かい合う。
「姉は……魚は、自殺しました」
膝の上で爪が食い込むほど、拳を握りしめる。よほど蒼白な顔をしていたのだろう、千鶴さんはこんな図体ばかりデカい僕を心配して言葉を止める。僕は大丈夫だから続けてと、目を伏せたまま答えた。千鶴さんが小さく頷く。
「遺書も遺さない自殺でした。だから、私には姉が何を思って死んだのか、何をしていれば死なないでいてくれたのか分かりません」
千鶴さんは遠くを見つめる。つられて、僕も同じ方向を見るが、そこに何があるわけでもなかった。壁の高い位置に飾られたからくり時計も、今は静かに時を刻むだけの、最低限の仕事をしている。
「それでも時は進みます。私はお姉ちゃんがいなくなった世界をまだ受け入れられてないのに、季節は変わるし、流行りも変わる。私の体もいつの間にか、当時のお姉ちゃんの歳に追いつこうとしている。……たまらなく苦しかった、そんな時にお姉ちゃんがよく話してた、やまびこさんの作品に出会ったんです」
「の、呪いみたいな、世界への呪いみたいな文章ばっかりでしょ、僕の作品」
思わず声が上擦った。握りしめた拳が震える。一人で焦って、自分の汚い部分に免罪符を作ろうとする、自分の愚かさがどうしようもなく嫌いだ。
「はい、やまびこさんの作品は、まさに世界への呪いでした。なんで自分ばかりこんな辛い目にっていう、やまびこさんの心の叫び」
嗚呼、どうしようもなく逃げたい。分かってる、千鶴さんの感想に僕を責め立てる意思はひとつもない。それは声だけ聞いてても分かる。
「だからこそ救われたんです。嗚呼、世界を呪ってるのは私だけじゃないんだって。なんで私ばかりこんな辛い目にって思ってるのは、私だけじゃないんだって。……少しだけ、自分の孤独に折り合いがつけられるようになったんです」
おそるおそる、顔を上げて見てしまった、千鶴さんのあまりにも綺麗な瞳。やめてくれ、そんな綺麗な目で、僕を見ないでくれ。
「やまびこさんのおかげです」
「違う」
この綺麗な目で、魚さんによく似た綺麗な目で、ありがとうなんて言われたりしたら、僕は気が狂う。本気でそう思って、千鶴さんの言葉に、威圧的に言葉を重ねた。
「それはあんたが、勝手にあんたのやり方で成長しただけだ。孤独との向き合い方が分かったのも、あんたの重ねた時間が勝手にあんたを癒してくれただけだ。あんたのオナニーに僕を巻き込むなよ」
勢いよく立ち上がって、一気に捲し立てて、目眩がした。千鶴さんは驚いて静かに目を見張っている。カッカと熱くなった全身を冷やしたくて、お冷を流し込む。少し噎せた後、皺の寄った眉間に手を当てて、深く息をついて。
「自分の人生は、自分にしか救えないんだよ」
言うだけ言って、僕はその場を後にした。とうとう逃げ出したのだ。
最初のコメントを投稿しよう!