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あの少女と会ってから数日経ったある日、仕事から帰っている途中にスマホが鳴った。画面に表示されている名前を見て、すぐに通話ボタンを押す。
「もしもし」
「もしもし、じゃないわよ。あんた約束破ったでしょ」
やっぱり怒っている。
「ごめん」
僕が謝ると、電話の向こうから深いため息が聞こえてきた。
「リサとは話さないって、離婚のときに書面でも約束したこと、忘れたわけじゃないわよね」
リサ。それがあの少女の名前だ。僕と、電話の相手との間に生まれた、たった一人の娘だ。今から七年前に、僕の浮気が原因で別れるまで一緒に過ごしたかわいい娘。リサはそのときあまりに幼過ぎて、僕のことは記憶に残っていない。
浮気は本気じゃなく、一時の気の迷いで起こしてしまった。けれど、僕は愛する人を深く傷つけてしまった。リサとは永遠に話すことは禁じられた。ただ、遠くから見ることだけは許してくれていたけれど。
「ごめん」
僕には謝ることしかできない。
「私、病院に行ったの」
あぁ、良かった。
ちゃんと行ってくれたんだ。
リサと彼女の姿を遠くから見ているとき、彼女がここ最近、頭を押さえて、痛みを堪える表情をしているのを何度も見ていた。彼女の病院嫌いはかなりのもので、それに加えて育児と仕事に追われる日々。病院に行っているわけがないのはなんとなく予想が付いた。
だからといって、僕が病院に行くことをすすめたところで、彼女があっさりと言うことを聞いてくれるとは思えない。そこで僕はリサを利用した。リサの必死の頼みなら、きっと聞いてくれると思ったから。
リサにはかわいそうなことをしてしまった。けれど、僕にはこれ以外の方法は見つからなかった。
僕に電話をかけてきたということは、彼女はすべて理解したんだろう。昔から、勘の鋭い人だったから。
「脳に腫瘍が見つかった」
「え……」
「でも、本当に初期のものだったから、小さな手術で完全にとれるだろうって。放置していたらどうなっていたかは分からないけど」
ヒヤリとした。でも、よかった。僕の作戦はうまくいったようだ。
「認めたくはないけど、今回だけはあなたに助けられたわ」
ありがとう、とは言わないあたりが実に彼女らしい。ふっと笑みがこぼれた。
「……もう一度、リサに会ってみる?」
思いもよらない言葉に、思考が停止する。そんなことを言ってもらう資格が自分にないことは分かっていたから。
「勘違いしないでよね。リサがこのままあなたに騙されたままでいるのが嫌なだけ。別にあなたが求めていないなら」
「会いたい! 会わせてほしい!」
そう、と彼女は小さくつぶやいた。
「また、落ち着いたら連絡する」
いきなりかかってきた電話は、いきなり切られた。
ポケットにスマホをしまおうとしたとき、何かが引っ掛かった。奥に手を伸ばすと、あの日リサに見せた写真が入ったままだった。
リサと彼女は、誰が見ても親子だと分かるくらいにそっくりだ。そのことに、心から感謝した。僕の過ちのせいで、彼女は写真の中のようにはもう笑ってくれないかもしれない。それでも、僕は二人を守り続けなければいけない。それが唯一、僕に許されたことなのだから。
僕は写真の中の彼女の頬を、そっとなでた。
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