000「書生と花売り」

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 目を開けると――そこには、少年の様に短い髪の椿が居た。彼女の長かった髪は床に散らばっている。恐らく斧で切り落としたのだろう。自らの髪の上に立つ椿は、浅葱が断りなく目を開けたことに不服そうにムッとした。 「椿!君は、何をしてるんだ!」  思わず大声を上げてしまった浅葱を、椿はうるさい、と一喝する。 「あなたの着物、貸しなさいよ」 「な、なんで!」 「うるさいわね。どうだっていいじゃない」  浅葱の反応を鬱陶しそうに跳ね除けて、椿は箪笥の中身を勝手に物色しはじめる。それから浅葱が止める間もなく、流れるように着物の帯を解いた。布が擦れる音と共に、一枚、一枚、彼女自身が露わになっていく。浅葱は、窓から差し込む月明かりに照らされた彼女のあまりの美しさに、身動き一つできなかった。椿は時々、そんな浅葱に挑発するような目線を送りながら、手際よく着物の懐に忍ばせておいたサラシを胸に巻き付け、浅葱の着物に袖を通す。そして袴の帯をしっかり絞め終えると、得意げな笑みを浮かべた。浅葱はその笑顔に、かつての無邪気だった椿を思い出す。 「どんなもんよ!どこからどう見ても、男にしか見えないでしょう!」  確かに彼女の言うように、髪を短く切り男の装いをした椿は、少し華奢な青年に見えた。元々中世的な彼女は、驚く程その格好に違和感が無い。  浅葱は目の前で何が起こっているのか理解できず、男の装いをした彼女をただ呆然と眺めていた。椿はそんな浅葱に歩み寄り、座り込んだままの彼に目線を合わせるように膝を折る。その形の良い唇が、浅葱の直ぐ近くで予想もしていなかった言葉を紡いだ。 「わたしが、あなたの代わりに行ってあげるわ」  浅葱はその言葉に息を呑み、凍り付く。「何を言っているんだ」とようやく必死に絞り出した声はみっともなく震えていたが、椿はそれを馬鹿にすることなく、何も含むところのない昔のような純真な笑顔を浮かべていた。 「昔からわたしの方が、運動神経は良かったもの。わたしが行った方が生き残る可能性は高いでしょ。それに、あなたはこんなところで死ぬべきじゃないわ。いつかうんと偉くなるんだから」 「椿!君はさっきから何を言っているんだ!?どうして君が僕の代わりに……!?」 「あなたが好きだからよ」  浅葱は彼女の突然の告白に、頭が真っ白になる。こんな時でなければ死ぬほど嬉しい筈の言葉が、今は死ぬほど悲しかった。 「こんなに汚れているわたしが、あなたを好きだなんて、迷惑よね。ごめんなさい」 「そんなことはない!君は昔からずっと変わらず、綺麗なままだ!」  浅葱は思わず椿を抱きしめる。椿は少しだけ泣きそうな顔をした後、彼の背に手を回した。 「ありがとう。そんな風に言ってもらえるなら、未練がましく都まで出てきた甲斐があったってものね。浅葱、ありがとう」  浅葱は椿が愛おしくて堪らなくなり、その唇に口を寄せる。触れ合うか触れ合わないかのその瞬間、鈍い音と重たい痛みが浅葱の頭に響いた。浅葱は気を失い、椿を巻き込みその場に倒れ込む。彼の背後で花瓶を手にし震える叔母に、椿は「素晴らしいタイミングですね」と嫌味を言った。  それから二人は、気を失っている浅葱を丁寧に布団の上まで運んだ。椿は彼の額に口付けの一つでも残したいところだったが、心配そうな顔をしつつ自分を見張っている叔母の手前、それは出来なかった。椿は叔母を伴って、彼の部屋を出る。 「叔母様。戦争が終わるまで、浅葱を隠しておいてね。きっと大丈夫。全部上手くいくわ」 「椿ちゃん……本当に良いのかい?」  そうは言いつつも、どこか縋るような目で椿を見ていることに、本人も気付いていないのだろう。その臆病な瞳に浅葱の面影を見て、椿は優しい笑みを浮かべた。 「はい!わたしには残していくものは何もありませんから!」  その言葉に、叔母は泣き崩れる。椿はそんな叔母の背中を擦ってやり、浅葱のことをよろしく頼むと言い残して夜闇に飛び出していった。  明け方、目的地までの汽車に乗り込むと、もう二度と会えないかもしれない幼馴染の顔を思い出して、椿は一人静かに泣いた。彼はもう目覚めただろうか?勝手なことをした自分を叱るだろうか。それとも、少しはホッとしているだろうか。  嗚咽が漏れ出た。駄目だ、こんなに女々しくしていては、女だと知られてしまう。椿は必至で目頭を押さえて、涙をひっこめようとした。 (ああ、神様神様、どうか、どうかわたしをお守り下さい!そしてまた、あの心優しい幼馴染に会わせてください!どうかどうかどうか!)  ――それが叶わないのならば、せめて来世は二人とも、平和な時代で生きさせてください。  ひとしきり泣いた椿は、車窓に流れる全く見覚えの無い景色を眺めながら、ポツリと呟いた。 「やっぱり、ちゃんと口付けしておけば良かったなあ」
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