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「話はあとでゆっくり聞きますから、しばらくおとなしくしていてくださいね、宅間さん」
『なんだ! どうなっているんだ! 出せ、出してくれ!』
札がキャンキャン吠えている。我が主はその声にこたえることなく白衣の胸にそれを納めた。
「ご苦労様、イチ。帰ろう、学校に」
我が主は私の頭を撫でてくれる。しかし私はいつものことだが、妙にそわそわしてしまう。
私の視線が胸もとに吸い寄せられていることに気づいた我が主は、クスクスと声を立てて笑った。
「腹ペコなのかい?」
「言うまでもない。私にとっては、脱走者の魂を食らう時こそ至高」
基本的に、私は空腹を覚えない。だが、冥界を脱した死者の魂を貪り食う時間を心底幸福だと感じる。これこそ我が本能、私が冥界の番犬に生まれたことの証とでも言えようか。死者にとっては脱走などしないに越したことはないが、私としては少々複雑な思いもある。脱走者がいなければ、私の心は満たされない。
そうしたわけで私は今、我が胸に宿る欲望と大いに闘っているところである。我が主が札に閉じ込めた脱走者をすぐにでも食らってしまいたい気持ちを、我が主からの命に背くなという番犬としての誇りがどうにか押しとどめている状態だ。
「なるべく急いでくれ、涼平」
失礼に当たらないギリギリの線を狙い、私は我が主に懇願する。
「欲に負ければ、私は番犬ではいられなくなる」
我が主は、恐ろしいほどの真顔で私に言う。
「時々きみは、いかにも人間らしいことを言うよね」
「私は人ではない」
「でも、欲望は人間の行動原理だよ」
そのとおりである。黙るしかない。
欲に目が眩みかけている私に、我が主はなぜだか愛おしそうに微笑みかける。右手がゆっくりと持ち上げられ、私に制止を求めるように手のひらを私の方へと向け、言った。
「待て」
――時に我が主は、私をペットのように扱う。
否定はできない。今の私は、餌を前にして飼い主に躾けられている犬そのものなのだから。
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