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 夏休みが明けたばかりの九月上旬。厳しい残暑を煽るようにギラつく太陽の下にあっても、我が主はその名のとおり涼を感じさせるさわやかな出で立ちを保っている。  頭の後ろで一つに束ねた、肩甲骨に触れるか否かというあたりまで伸びる黒髪が、彼が足を踏み出すたびに軽く揺れる。笑みの浮かぶ顔は無骨な男らしさとはかけ離れ、薄い唇に低すぎない鼻、切れ長なふたえの目もととどれも均整が取れており、男や女という性の枠組みには当てはめられない美しさに満ちている。一六三センチと男にしては背が低いせいか、髪を下ろした姿でいると女性に間違えられることも多い我が主は、さもありなん、言葉づかいからも男臭さとは無縁なしとやかさを感じさせた。 「さすがだね、イチ」  彼は私を『イチ』と呼び、誰よりも嬉しそうに笑っていた。なんという能天気なお人だろう。例のサッカー部員にバカにされたことをもう忘れてしまったのか。私は言葉を失い、ため息をこらえられなかった。 「あれ、怒ってる?」  今ごろ気づくとは、暢気にもほどがある。主に向かってこんな顔を見せたくはないが、私はややあきれてこう返した。 「(かたき)は取った。余計なことだったのなら謝ろう」  我が主はキョトンとした表情を浮かべたが、私の言葉の真意に思い至ったらしく、やはり嬉しそうに笑って言った。 「ありがと」  まるで小さな子どものような笑みだ。実際彼は子どもであり、私がかつて仕えた主の中では圧倒的に若い。  だからだろうか。  彼に笑いかけられると自然と頬が緩んでしまう。この無邪気な笑みに触れるたび、自らの使命をつい忘れてしまいそうになる。  だが、今回はタイミングがよかった。たるんでいた太いテグスがびぃん、と一気に張られたような緊張感が校庭の空気を切り裂いて駆ける。  私と我が主の視線が同じ北の方角、彼の生家である双木家のほうへと向けられる。肉の焼けるような、あるいは腐敗した(けもの)亡骸(なきがら)から発せられるような不快な臭気が私の鼻腔を容赦なく突く。  冥界の扉が開いたようだ。それは死者の魂が冥界へと導かれるものではなく、その逆。  死者が冥界から脱走し、この現世に舞い戻った。  我が使命を思い出す。そう――今この瞬間こそ、仕事のときだ。
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