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 私はカーテンをすり抜け、入ってきた保健室のガラス扉もすり抜ける。この姿になった私たちは、現世に働く物理的な力を受けるか否か、自らの意思で選択することができる。  私は我が主を背中に乗せ、真昼の東京を疾走する。校舎の壁面を垂直に駆け上がり、建物から建物へと飛び移りながら進んでいく。この姿になった私たちのことは人間の目には映らず、また声も聞こえない。意思疎通を図れるのは私たち二人と、冥界からの脱走者たる死者の魂のみである。  私の鼻を歪ませる不快な臭気は西へ西へと動いている。視界にとらえるまで今しばらくかかりそうだが、死者の魂が発するそのにおいだけを頼りに、私は全速力で脱走者の影を追った。  が、 「待って、イチ」  背中で我が主が情けない声を上げた。 「もうちょっとゆっくり走って。酔う」  なにを腑抜けたことを、とは決して言えない立場の私だ。足を止め、我が主を振り返る。 「では、ご自身で走られるか」 「バカなこと言わないで。僕みたいな運動音痴がきみと並んで走れると思う?」  思わない上に、それが叶わないこともわかっている。だいたい、私とともに脱走者を追おうとするのは彼くらいなもので、かつて私が仕えた主は皆、私に脱走者の捕獲を命じるだけでご自身はご自身の生活を続けられていた。そもそも、私が人の姿に化けて日常的に主と行動をともにすることもまた前例のない事態であるし、とかく現在の主である双木涼平と私の関係は異例づくしで、情けないかな、いまだに彼の生み出す独特のペースに振り回されっぱなしの私である。  私はため息をかみ殺し、我が主に言う。 「ならば、しばし耐えられよ」 「だよね。わかってる」 「時間がない。行くぞ」  ひしと私の首に抱きつく我が主を背に乗せた私は再び空と大地の間にひしめく人工的な凹凸を蹴り、西へと進む。我が主に与えられた時間は残りわずか八分弱。肉体から離脱した魂が十分以内に戻らなかった場合、我が主の魂は冥界へといざなわれ、肉体は朽ちる。今で言うならば、彼は高校の保健室のベッドで横たわったまま最期(さいご)を迎えることになる。  臭気をたどり、五分ほど走り続ける。そうしてようやく、脱走者の背中が遠くに見えた。 「いた」  相模原(さがみはら)あたりまで来ただろうか。高層ビルの屹立する地域を抜け、次第に緑が増えてきたのどかな街並みの中を、濃紺のスーツに身を包んだ男が民家から民家へと不格好に飛び移りながら駆けていく。目指す先はまだ見えてないようで、男の足取りには迷いがない。  だが、私は私の役目を果たす。  私に与えられた使命は、冥界から脱した者をとらえ、その魂を食らうこと。
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