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「まだ食べないで、イチ」  私の心を読んだように、我が主はスピードを上げた私に言う。 「あの人の話を聞いてあげたい。どういう理由で冥界を抜け出してきたのか。彼がこの世に残した未練がなんなのか」  わかっている。かつて私が仕えた歴代の番人たちの中で、彼のように脱走者に情けをかけた者はなかったが、主の方針に従う他に私に与えられる肢はない。  ならば、私の為すべきは一つ。脱走者を生け捕りにし、我が主の前に差し出すこと。  我が主がしがみついている赤い瞳の頭に意識を向け、私は大きく開けた口から炎を吐いた。  空間を切り裂くように突き進む赤い炎は、一つ隣の民家の屋根を行く脱走者の青年を取り囲むように渦を巻く。炎の中に閉じ込められた青年は「うわっ」と驚きの声を上げ、その場で足を止めることを余儀なくされた。  実のところ、冥界から脱した彼は我々と同様に霊体であるから、意思一つで炎の渦など簡単に抜け出せる。だが実際は現世での記憶が染みついているため炎を見るなり恐怖を覚え、動けなくなる。相手を足止めするにはこれくらいの手を打つだけでいい。楽なものだ。  炎の渦が消え、青年がこちらを振り返る。巫女装束の我が主(男)と三つ頭の大きな黒い犬(私)の存在に彼は大いに驚いた様子で、足が竦んでしまっている。 「涼平」 「よし」  私の合図で、我が主は私の背中から下りる。青い屋根の(むね)に片足をかけて立った彼は、白衣の隙間から一枚の白い短冊状の札を取り出す。今はまだ真っ(さら)なこの札の中に、我が主の力をもって冥界からの脱走者の魂を封じることができるのだ。 「えいっ」  人差し指と中指の間に挟まる白いそれを、彼は手裏剣を投げるような動作で脱走者に向けて放つ。札は我が主の腕の動きに従うまま脱走者の立つほうへと向かい、風を切って進む。  が、 「……あれ?」  札は脱走者の頭の左を通り過ぎ、すぅっと空の彼方へ消えていく。ドッジボールで、狙い定めたはずの相手を当て損ねたような光景に、我が主は本気の顔で首を捻り、私は今度こそため息をこらえきれなかった。 「おっかしいなぁ。ちゃんとまっすぐ投げたのに」  どうしてこうなる。これまで我が主が一発で札を当てられたことは一度たりともなく、今日でまた連敗記録を一つ伸ばした。不名誉極まりないことだが、口には出さない。
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