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「……なんなんだよ」
脱走者はそう口走り、我々に背を向けて逃げ出した。私は我が主を置き去りにし、脱走者を追い抜くと、その正面に回り込んで相手の足を止めさせた。
脱走者は顔色を変え、私を見る。
「ケルベロス……これが、本物の」
「偽物がいるという話は聞かないがな」
律儀に答えるのもバカらしいと思いつつ、私は彼との距離をまた一歩詰めながら、私に与えられた役目を語る。
「私は冥界の扉を守りし番犬。我が主の許可なく冥界から脱した者は、容赦なく食い殺す」
冥界とは、死者の魂が現世で作った穢れを落とし、新たな魂へと生まれ変わる時を待つ場所だ。おとなしくしていればただひたすらに心地よい時間を過ごすことができる、言うなれば楽園、桃源郷である。
だが時に、現世に対し強い未練を残す者が冥界からの脱走を試みることがある。現世に戻ったところでなにができるわけでもないが、行動せずにはいられない熱い衝動のようなものが抑えきれないのだろう。
今回の脱走者がなにをもって現世に舞い戻ろうと思ったのかはわからない。しかし、現世にルールがあるように、冥界には冥界のルールがある。
冥界において、脱走は御法度。一度でも冥界を抜け出した者は、激しい痛みを伴いながら私に貪り食われ、心の休まる穏やかな時間も、生まれ変わりの機会も失う。それが私たち冥界に暮らす者の守るべき掟である。
「待ってくれ!」
脱走者であるスーツ姿の青年が、私に対し必死な様子で訴える。
「俺の話を聞いてほしい! こんな死に方、納得できないんだ!」
「案ずるな」
私は脱走者の青年に、我が主の意思を伝える。
「今すぐおまえを食うことはしない。おまえにはしばしの時を与える。我が主のお優しい御心に感謝することだ」
「しばしの時……?」
「そういうこと」
私にはその姿が見えていたが、青年の背後に我が主が迫っていた。驚いて我が主を振り返った青年の額に、我が主は先ほど投げて貼れなかった白い札を、ぴと、と優しく貼りつけた。
我が主の指先が離れ、一瞬の風に吹かれて揺れた札は瞬時にまばゆい光を放ち始め、青年のからだがみるみるうちに札の中へと吸い込まれていく。やがてそこには札だけが残り、我が主の手のひらの上に収まったそれには脱走者である青年の名――宅間康允と墨の文字で刻まれた。
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