予約

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 お願いごとの前に、念のため、最終確認をすることにした。 「ねえ、先輩」 「ん?」 「どうあっても、私とは付き合っていただけないんですよね」 「それは、やっぱり難しいかな」 「わかりました。じゃあ手を前に出して、何も言わずに、目を瞑ってください」 「手を?」 「はやくして」  自分でも驚くほどに低い声が出た。飛行機だったら墜落してそう……と思いつつ、自分の言うとおりに目を瞑った先輩の顔を眺めて、満足感を糧にする。歳上とはいえ大きく離れていない先輩の顔にはあどけなさというか(いとけな)さというか、ちょっと気持ちがやわらかくなる成分が残っていた。なんだよやわらかくなるって。煮物に酢をぶちこむみたいなこと言うんじゃない。  張り裂けそうな声色を調合した。 「先輩。……ちょっと痛みますけど、我慢してください。私の心のほうがよっぽど痛いから」 「はい、はい。刺されたりしないなら、甘んじて受け入れるよ」  そこのところは、大丈夫です。  甘噛み程度にするから。  頭の中でそう呟きながら、私は先輩の左手薬指に噛み付いた。んっ、と先輩が何か口走りそうになったが、私は込める力を強めたり弱めたり、偶然を装って指の腹に舌を這わせたりして黙らせた。  どう、先輩。かえって直接唇を重ねるより昂るものがあるんじゃないですか? こんなこと、あなたの彼女はしてくれます?  まあ、もう相手の女のことなんかどうでもいいや。少なくとも私はできてしまう、ということだけ知っておいてくれれば。  唇を離して、もういいですよ、と声を掛けた。先輩の左手薬指には、私が歯を立てて刻んだ、歪なストライプみたいな模様の指輪が残っている。 「なんだ、これ」 「予約です。いずれは先輩が私に振り向いてくれますように、って」  そう、予約。右手薬指くらいなら預けてやってもいい。ただ、私にだって譲れないもののひとつやふたつあるし、我慢ならないことはもっと多い。その意志を表した指の痕がいずれ消えても、私がいま先輩にしたことの記憶が消えるわけではない。  だからこそ、それがいい。先輩はきっともう、私のことを忘れることなんか、できはしない。絶対に私は先輩を逃がさない。 「今は自由の身としてさしあげます。……でも、早いところ諦めてくださいね、先輩。私はここまで来たからには絶対諦めない」  バネを限界まで縮めて解き放ったかのように、私の先輩に対する感情は音より速く飛んでいく。世間的には「(こじ)らせ」と言ってもよい類のものだろうが、私にとってはその他大勢の勝手な考察より、先輩のことが、未来のことが大切だった。いつかは絶対に先輩を手に入れてみせる。これは決意表明であり、犯行予告ではない。  だから今は、寄り道していただいてもいいですよ、先輩。最終的に自分の歩くべき道がどこだったか気づいたとき、あなたは絶対に私の手をとっているから。  黙り込んでいた先輩はやがて、薬指の痕から、ちらりと私に視線を移した。 「滝谷さんって、気が弱かったから高校時代はずっと俺に話しかけられなかった……って言ってたよね」 「ええ」 「だとしても、反動がすごすぎない?」 「後輩の女が自分の指に噛みついても怒らない先輩だって、すごいと思いますけど」 「付き合うこと以外なら叶えてあげる、って言ったのは俺だからさ」 「本当にそれだけですか?」 「何が言いたい」 「自分に恋人がいると知ってもなお言い寄ってくる異性がいる状況を、満更でもないと思ってる」  先輩は何も言わなかった。  そう、あなたは本当にずるい。そんなあなたを今すぐ完全に振り向かせられないことが、私は悔しくてたまらない。  だから、その悔しささえエネルギーにして、絶対にあなたを手に入れる。どこまでだって追いかける。  そして、いつかあなたが疲れ切って地面に膝をついたとき、後ろから甘く抱きしめてあげる。  二度と私から離れられないように。  もう一度、薬指につけられた歯型を見やると、先輩は呆れたように微笑んだ。 「そうかもしれない。……でも、満更でもないと思ってるのは、きみもだろ」  簡単に言い当てられたことが悔しかった。 /*end*/
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