予約

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 先輩は吹奏楽部でただひとり、楽器ではなく棒を一本だけ手にとって、個性のまったく違う音色を見事に制御する指揮者だった。音楽なんてひとつも興味がなかった私が目を奪われたのは、高校入学後はじめての、部活紹介を兼ねる対面式。吹奏楽部の面々の真ん中で指揮棒を振っている、すらりと背の高い先輩に、私はすっかり一目惚れしてしまったのである。  それでも吹奏楽部に入る勇気はなかった。中学生も帰宅部だったし、自分ひとりじゃ何もできないくせに、他人から指図されるのが嫌いという犬畜生が私だった。  なにより、本当に好きなものなんて遠巻きに眺めながらニヤつくのが一番幸せなんだ……ということを、私は肉親を見てよく知っている。あんた本当に最悪な反面教師だよマイ母。結局は旦那も浮気相手も手放す羽目になって、唯一手放したくても手放せなかったのが旦那との間にできた一人娘たる私なんですよね? 人が寝てると思って、親族に好き勝手言ってたの全部知ってるんで。いつかあんたの身体を練りに練って、板の切れ端になでつけてやるからな。  恋などという、やわらかくて崩れやすい感情は、ふとしたきっかけで飛散して、周りを汚してしまいかねない。だから自分の手の中で()ねているだけでいい。ずっとそう思っていたし、これからもきっとそうだと思っていたのに、どうしても我慢できない気持ちか疼いて鎮められなくなった。  もっと先輩を近くに感じたい。言葉を交わしたい。手をつなぎたい。なんなら身体をへし折るほどに、きつくかき抱いてくれていい。先輩が私のものにならなくてもいいから、私を先輩のものにしてほしい。  そう思う気持ちと、先輩を傷つけたくない、煩わせたくないという気持ちが毎晩、頭の中で熱い戦いを繰り広げるようになった。最初のうちは(やばいなあ。私も恋なんかするようになったんだ。けっこう乙女なところがあったな)と少しだけ微笑ましい気持ちにすらなったけれど、カレンダーの日付が進んでいくにつれて、段々と何も変わらぬ現状に対して腹が立つようになった。  どうしてこんなに想っているのに、私は先輩と離ればなれにならなきゃいけない? 離ればなれというか、初めて先輩を好きになったときから、近づきもしなければ遠のきもしていなかったんだけど。  どこかで(このままでもいいかな)と思っていたのは事実だとしても、どうやってもこのままでは遠くない未来に、私と先輩との距離は開いてゆくことが確定している。  このままでいいのか。  いいわけがないよな。  追いかけなきゃ。  普段は家の鍵を締めたかどうか何度も戻って確認するくせに、この決断をするときには、なんら躊躇がなかった。
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