前編

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 *  病院の一室で、一華は手足の擦り傷の手当てを受けていた。何を聞かれても、出てくるのは涙ばかりで声が出ない。擦りむき血が滲んだ手足の痛みさえ、何も感じなかった。  律は今、手術室にいる。  声が出なくなった一華の代わりに、あの場で事故の一部始終を目撃していた人が、救急車を呼んでくれた。 『事故です! トラックが急に突っ込んできて、男の子が、女の子をかばい重体です!』  その言葉が、容赦なく一華の心を刺す。  自分をかばって律は……。  駆けつけた母に付き添われ、一華はよろめきながら診察室を出た。少し横になった方がいいと勧められた言葉を遮って、律が手術を受ける待合いの廊下に急ぐ。    視線の先にある、手術中を示す赤いランプが消えた。しばらくして出てきた医師に、震える声で律の母が尋ねる。 「律は? 無事、無事で……。あの、先生、大丈夫……大丈夫ですよね、先生!」  そのすがるような声に、医師は、ゆっくりと首を横に振った。 「最善は尽くしましたが」  悔しそうに途切れた言葉の後、律の母親に向かって医師が深々と頭を下げる。その場に、空気を引き裂くような嗚咽(おえつ)が響いた。  ──お願い、行かないで。  * 「一華、こっち!」 「待ってよ、律!」  地元の神社へと続く参道にたくさんの屋台が並ぶ。町内会で開かれる小さな縁日を、律と二人で楽しみにしていた。  小学校三年の年に、一華は初めて浴衣を着付けてもらった。律も、深い藍色の浴衣を着ている。いつもの洋服と違い上手く走れずにいる一華の手を、律の手がギュッと握ってくれた。 「行くぞ」 「うん」  手を引かれるままに人混みをかき分け進む。参道を抜け境内へと進み、そこから脇道へ出て神社の森の中にある、杉の大木までやって来た。 「ここ。すっげーキレイに見えるんだ」 「このまえ言ってた秘密の場所?」 「そう。ほら、もうすぐ」  律の指差す方を見る。  夕陽で空が一面オレンジ色に染まり、キラキラと輝きを放っている。 「きれいだね」 「こっから、もっとすげーから」  空全体を照らしていたオレンジの光が、沈んでいく夕陽に合わせ、徐々にその光の範囲を狭めていく。  いつしか空の輪郭は、深い闇色へと染まり始め、わずかに顔を残す夕陽の光が、この大杉へと向かって一筋伸びてくる。   「すごい! 光の道ができた」 「だろ! 沈む前の最後の光が、ここに向かって一直線に伸びて来るんだ!」  わずか数秒間の奇跡のような光景が、ふっと、完全な夜の闇に変化した。 「二人の秘密だからな」 「うん。誰にも言わない」  指切りをした後、二人で手を繋ぎ神社の境内まで戻ってきたその時、突然、夜空が(うな)り声を上げた。 「雷?」  境内にいた誰かの声に空を見る。先程まで、あんなにも綺麗な夕陽があった空が、まるで人が変わったように不機嫌な声を上げている。  突然の夕立に、急いで境内の軒下に身を隠す。ゴロゴロと低い空の唸り声が響くたびに、一華の体が恐怖で震えた。 「俺がいるだろ」 「うん」 「俺が、守ってやるから」 「うん。律、ありがとう」  小学生の頃の小さな約束を、律はずっと覚えてくれている。中学になっても、高校になっても、一華のことを守ってくれた。  そしてあの、事故の瞬間も。  ──そんな約束、忘れていいよ。  律がそちらへ行ってしまうのなら、あの頃のように手を引き連れて行ってほしい。 『一華、こっち』  大好きな声で、そう呼んでほしかった。
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